2012-12-01から1ヶ月間の記事一覧

浅間高原とは〈南木山〉と言われるのは何故?

歴史ある南木山から浅間高原へ!? 今年もあと1日。この間、いつも長い文にお付き合いをして頂いた皆さん、ありがとうございました。感謝をこめて?また長い一話。 これまでに、折に触れて浅間高原だの南木山(なぎさん)だのって記してきたんですが、浅間山の…

失われていく民家

昭和の終わりころまで嬬恋村に残っていた藁葺の民家、もうほとんど見かけなくなりました。書類を整理していたら画家が残してくれたリソグラフ(シルクスクリーン画)による古民家シリーズがありました。手すき和紙をベースに、リソグラフ版画+手で彩色してあ…

絵になる田代地区の落葉松林

戦後、たくさん植林された落葉松。その苗の種を取った母樹木が嬬恋村に巨木となって残っています。作曲家小林秀雄氏は草軽電車に乗って新緑の軽井沢から浅間高原を走り嬬恋に辿り着くとき、新緑に感動して名曲「落葉松」をつくりました。田代地区の畑地の中…

田代地区を歩く…(その5)農村に光をもたらした先人の碑

「風塵の野に咲く花」と讃えられた戸部彪平氏の奮励 田代集落内を通ると交番隣に大きな碑がある。ちょっと読みづらいが青木彦治翁の碑で、今日の高原野菜産地の礎を造った3人の一人です。ほかに農業の技術員だった塚田国一郎氏、それに田代の旧家出身の戸部…

寒いけど、体力づくりのつもりで・・・

ナラの木の伐採作業を始めました! すっかり葉も落ちた12月の新月あたりから始めようと思っていたキノコ栽培用のホダ木作りをようやく開始。倒木のために18インチのソーチェーンを新しくしたので楽でしたが、場所が今年も斜面なので慎重に。 その前に山神さ…

古民家再生?リフォームです!

自分の実家のすぐ近くの、使われていなかった築100余りが過ぎた家のリフォームが始まりました。大正の初めですから基礎は石の土台。それに馬屋が2部屋あり、土間が広くあって、ここで餅つきをした記憶があります。無くならずに再生されると聞いて写真に。完…

「おとなは、だれも、はじめは子どもだった…」(星の王子さま)より

この13日〜14日の未明にかけて、ふたご座流星群がありましたが、見られましたか?私は早朝に5つばかりをしっかりと。星を見て思い出しました「星の王子さま」を、ではなくて、それを初めて翻訳した内藤濯(あろう)さんの王子、第一子を。 たしかH11年の今頃で…

繊維のダイヤモンド、見つけた!

葉もすっかり落ちた山野を歩く楽しみのひとつに、子どもの頃から緑の繭探しがありました。葉が落ちてやっと目に付くくらいですから、あまり多くあるわけではありませんが最近は特に少ない気がします。雪も今年は早いのできょうは伐採予定の山林の下見に出か…

雪が早い今年の浅間山の朝 12/11

久しぶりに朝の写真を撮りました、−6℃です!寒ッ!

馬と暮らした村、嬬恋村

嬬恋村のどこの集落を歩いても、馬頭観音像の石造物をあちこちに見つけることが出来る。この村には334体も立っているからだ。ここに住んでいた人たちの、良く働いてくれた家畜に対する思いやりと、大切な家族の一員としての思いが供養塔から偲ばれて来る。 …

浅間高原・南木山の払下げは先人の願い!

12月10日は南木山・浅間高原の開放記念日!? 嬬恋村の鳥井峠〜北軽井沢の二度上峠にかけての山麓一帯は、今は浅間高原と呼ばれ、高冷地農業と自然豊かな観光地です。ここはつい最近まで「南木山(なぎさん)」と呼ばれていました。明治後半に払下げられるまで…

田代地区を歩く…「軍道」だった鹿沢線

田代地区を歩く…(その4) 鹿沢線、この真っすぐな道を作ったのは? 国道沿いにあるJAの予冷庫施設がある信号の所に立つと、鹿沢湯の丸方面へ行く道は、スキー場のある山に向かって真っすぐに伸びている。年配者に聞くと昔は蛇行していたのだと言う。真っすぐ…

四季派の舞台・信濃追分宿、その整備に驚く!

先週末、風も冷たい中軽井沢の「分去れ」の小道を歩いた。ほんとうに久しぶりに立った。就職したばかりの私は初めて貰った給料の大半を使って『立原道造全集・全6巻』を買った。東大の建築科を卒業した立原の 言葉を自在に操ったソネット形式の詩が好きだっ…

田代地区を歩く(その3)…「田代湖造成」は大きな社会事業だった!

田代地区を歩く(その3)…「田代湖造成」は大きな社会事業だった! 田代地区は標高も一番高い位置にあり、田ができない。大正末当時の様子を記した話に、おもな作物が粟、ひえ、そば、馬鈴薯等が中心だったと記されています。馬の飼育や炭焼きも盛んで、馬で信…