田代地区を歩く…(その5)農村に光をもたらした先人の碑

「風塵の野に咲く花」と讃えられた戸部彪平氏の奮励 
田代集落内を通ると交番隣に大きな碑がある。ちょっと読みづらいが青木彦治翁の碑で、今日の高原野菜産地の礎を造った3人の一人です。ほかに農業の技術員だった塚田国一郎氏、それに田代の旧家出身の戸部彪平氏(M14〜S20)がいます。地元ではあまりにも有名ですが、その碑は大前です。やはり読みづらいですね。碑文に「当時の山麓の寒村は、文化に遠ざかり、産業もまた振るわず、ようやくその日を送る火山灰土の村」で「最早万に一つの奇跡を信じるほかなかった」ほどの貧状だったと記され、その中で戸部彪平氏はどう生きたのでしょうか?

旧家の生まれとはいえ、馬による運送業を手伝った稼業は楽ではなく、20歳になって近衛歩兵第2連隊に入隊しています。「沈黙剛腹果断」と言われた性格は日露戦争にも従軍すると、倉地隊長の身の回り役となりその活躍が高く評価されて功労賞を受けたのですが、さらに第3連隊長の神尾光臣将官にも厚い信頼を得たのでした。M41年除隊した彪平氏は田代に戻り農林業に就くとすぐに、田代牧場(現在の農場あたり約700ha)の経営を開始。S3年に推されて村長に就任するや悲惨な農業の再建に心血を注ぎ「農業振興5か年計画」を作るとその実行に移ったのです。農業の技術者である塚田国一郎氏を駐在員に招き、村民への説得を何度も重ね、官庁へ陳情にも通いました。碑には「血の滲む奔走」と記されています。
同時に彪平氏は念願であった峠越えの県道の大改修の実現に夢を託していましたが、うまく話は進まなかったのです。そんな折、弟の二郎氏が豊島師範学校に入り、神尾家の書生であったことから、兄の熱意を察して神尾家で話題にしたとき、倉地隊長がお世話になったお礼なのか、知人の鈴木長野県知事への紹介状を頂いたのです。すぐに鈴木知事と会うと大事な話はしないまま歓談したと言います。その12月長野県臨時議会は鳥井峠までの道路改修が決まりました。神尾氏はすでに陸軍大将になっています。そして、群馬側の改修も二郎氏の友人の兄が群馬県知事に関西から就任すので地元の良き人の紹介を頼まれると、彪平氏は上京しお会いしたのが金沢知事です。道路全線の開通はS10年でした。

11年、開通を期に彪平氏は村長を退きましたが、その前に、この道路にバスの運行を実現しています。当時の三土鉄相大臣(S7〜9年7月)に上田市長をはじめ沿線関係町村長と一緒に陳情でお会いした時の彪平氏の直情話が残されています。大臣があまりにも素っ気ない態度だったのを見て彪平氏は、「吾々は、請負師でもなければ事業家でもない。幾多の沿道僻陬(へきすう)の地に埋もれた住民の叫びを代表するものである。にもかかわらず、あまりにも誠意なき大臣である。再び嘆願する勇気は無い…」と言い切って一人部屋に帰って昼寝していたという。実現したのは内田鉄相大臣(S9年7月〜11年11月)の時。大臣が視察に来たことを旅行先で知った彪平氏は急遽帰村し、家のジャガイモを袋に詰めるとハイヤー軽井沢駅に急いだ。「俺ァ嬬恋の村長だ、汽車の出る前に大臣にお目にかからにゃならん!」と言って警戒の中を進み大臣に渡すと、「君が留守で残念に思っていた、いつも決まった銘菓には関心がない、こんな良い土産を頂いたのは初めてだ」と大臣が言ったという。バスは道路の完成とともに運行がされたと言う。
これは美談ではなく、窮境を目のあたりに見た青年彪平氏が、わが身を顧みず奮闘し、天にも通じた至誠の証左のように思うのです。