田代地区の話

田代地区に残る「義勇軍」という地名

◆地名が伝える少年農兵の歴史 田代集落から鹿沢温泉に行く道路がパノラマラインと交差する場所の右側一帯、そのわずか西方の高台の耕地を地元では「義勇軍(ぎゆうぐん)」と今も呼んでいる。 交差点の角には陸軍予科士官学校跡地の碑が建っていて戦時下に一…

江戸〜明治、博徒で名高い群馬、嬬恋の寅五郎

「田代一家」 賭博の組頭、寅五郎の話 江戸から明治にかけて、群馬(上州)の博打うち徒、やくざは全国に名が知れていたという。短気な気質のうえ、鼻っぱしが強く、威勢がいいというのも、群馬の風土かもしれないが、吾妻地方は静かな方だった。わずかに嬬…

田代村の始まり

唐辛子、赤く実って田代村できた!? これは、古くから伝えられた田代集落のお話。 関東北西部にあって関東と信越の分水嶺にある嬬恋村。国道144号を吾妻川沿いに上がると鳥居峠の峰に至る。もう風花が舞うシーズンになった。田代村地区はこの手前の原野…

雪山讃歌の宿が新しく

湯の丸山の麓で湯守、番所守する一軒家の更新 文化財の調査、研究などで良くお世話になっている旧鹿沢温泉・紅葉館は、山の中の一軒家だ。といっても周囲が林に囲まれたという感じではなく明るい。明治2年に創業し、源泉を三本所有しているが、館の横には丁…

農民に圧倒的な支持を受けた、農業技術者がいた!

高原野菜の技術を広めた熱意の人…塚田國一郎さん 農民にどれほどの感謝を受けたのか、村に大きな碑が残されているのに、今は語られることも無い塚田國一郎氏の地域への思い。塚田氏を伝えるエピソードについてきょうは私からでなく、ひとりの方の口述から紹…

絵になる田代地区の落葉松林

戦後、たくさん植林された落葉松。その苗の種を取った母樹木が嬬恋村に巨木となって残っています。作曲家小林秀雄氏は草軽電車に乗って新緑の軽井沢から浅間高原を走り嬬恋に辿り着くとき、新緑に感動して名曲「落葉松」をつくりました。田代地区の畑地の中…

田代地区を歩く…(その5)農村に光をもたらした先人の碑

「風塵の野に咲く花」と讃えられた戸部彪平氏の奮励 田代集落内を通ると交番隣に大きな碑がある。ちょっと読みづらいが青木彦治翁の碑で、今日の高原野菜産地の礎を造った3人の一人です。ほかに農業の技術員だった塚田国一郎氏、それに田代の旧家出身の戸部…

田代地区を歩く…「軍道」だった鹿沢線

田代地区を歩く…(その4) 鹿沢線、この真っすぐな道を作ったのは? 国道沿いにあるJAの予冷庫施設がある信号の所に立つと、鹿沢湯の丸方面へ行く道は、スキー場のある山に向かって真っすぐに伸びている。年配者に聞くと昔は蛇行していたのだと言う。真っすぐ…

田代地区を歩く(その3)…「田代湖造成」は大きな社会事業だった!

田代地区を歩く(その3)…「田代湖造成」は大きな社会事業だった! 田代地区は標高も一番高い位置にあり、田ができない。大正末当時の様子を記した話に、おもな作物が粟、ひえ、そば、馬鈴薯等が中心だったと記されています。馬の飼育や炭焼きも盛んで、馬で信…

田代地区を歩く(その2)…追加…「轟(とどろき)の滝」

「轟(とどろき)の滝」(追加です) 見たり聞いたりした事を忘れないようにこのFBで勝手に頭のトレーニング(?)をしているんですが、早速前回の追加を忘れないうちに。田代地区は特に火災で貴重な資料が喪失しましたから、古老が伝えたお話がとっても貴重です…

田代地区を歩く(その2)…田代発祥の地「轟の滝」

田代地区を歩く(その2)…田代発祥の地「轟の滝」 国道を信号から集落地内に入ると田代湖入口のところに鮮やかな朱色の鳥井を持つ大山祇社が大きな岩のところにあり、そのすぐ横下を次郎兵衛川が道路を横断している。川は集落の西側を流れ下っていますが、今回…

開拓時代を彷彿させる旧「嬬恋馬鈴薯原々種農場」の庁舎建物!

日曜日、素晴らしい天気に誘われてカメラを持って田代地区を散策に。まずはお気に入りの種苗管理センター嬬恋農場(名称が2001年から変わった)の旧庁舎に立ち寄った。標高1230m。昭和20年、戦後の食糧増産と開拓ブームの中でここも開場し、60年余が過ぎて旧…

鹿沢地区に残る陸軍予科士官学校跡地

鹿沢・湯の丸線の『陸軍予科士官学校跡地』は何があったのでしょう? 鹿沢湯の丸線がパノラマラインと交差するところにある碑を久しぶりに眺めました。先の戦争がグッと身近に思えるようになったのはここが始まりでした。村には記録が少なくて学校でも誰も教…