田代地区を歩く…「軍道」だった鹿沢線


田代地区を歩く…(その4) 鹿沢線、この真っすぐな道を作ったのは?
国道沿いにあるJAの予冷庫施設がある信号の所に立つと、鹿沢湯の丸方面へ行く道は、スキー場のある山に向かって真っすぐに伸びている。年配者に聞くと昔は蛇行していたのだと言う。真っすぐにしたのは戦時中、この先にあった陸軍士官学校豊橋から合流した「野戦飛行場設営隊(127部隊)」が入った時に造成したからだと記している。この隊の上官は岐阜出身の小早川大尉で、宿舎が不足したので、田代の民家に寝泊まりしていて、ほかにも沢山民泊していたので、当時、田代は軍都の様だったとも書き遺しています。
この隊は鹿沢を最後に間もなく戦地に赴くのですが、九州からその先の戦地に大型船で向かう途中、魚雷攻撃にあい、全員が悲運な最後を遂げたのでした。隊の最後の仕事として、この真っすぐな道がいまもありますが、「軍道」の呼び名も造った人の話も途絶えてしまいました。