浅間高原・南木山の払下げは先人の願い!

 12月10日は南木山・浅間高原の開放記念日!?
嬬恋村の鳥井峠〜北軽井沢の二度上峠にかけての山麓一帯は、今は浅間高原と呼ばれ、高冷地農業と自然豊かな観光地です。ここはつい最近まで「南木山(なぎさん)」と呼ばれていました。明治後半に払下げられるまでは、国の直轄地であり、国有地でしたから、接する五カ村(大笹・大前・鎌原・芦生田・大桑の各村)の山稼ぎという入会権がある人の利用に限られていました。ところが明治政府になって直ぐ入会権が制限され、さらにM19年には「山稼ぎ」の全面禁止が発令されると、生きる基盤を失くす事態となって大騒ぎになったのです。関係者359名の入会権を求めて運動が起こりました。広がる運動はついにM29年、『南木山御下渡情願』を政府に出すに至ります。しかし、約12,100haもの払下げに政府はまったく反応せず、村は生活の困窮が進んだのです。希望があったとすれば、この時すでに北白川宮様が牧場として借りていたという一点でしたが、遅々として事態は好転せず、当初の交渉の総代10名から、外部の実力者らに依る4名の代理人へ移り、それでも困難を極めていたとき、村の関係者が草津温泉で本城安太郎という人物に出会うと、すぐさま代理人に依頼したのでした。ただ本城氏の条件は①任意の土地1/3を渡す②立木を1/ 2を渡す…という破格の契約!でした。やがてこの出会いが時代を動かしたのです。群馬県郷土史家・萩原進氏は「本城の介入が無かったら、ほとんど不可能であったと思われる」と。福岡藩士の家に育ち腹の座った本城は奮闘10年に及び、ついにM35年12月10日、払下げの許可状を持って軽井沢の駅に戻りました。この出迎えは村から500人にも及ぶと記され、初冬の大笹神社境内で行われた祝賀会は往年の歓声が夜更けまで響いたと言います。300年以上にも及ぶ村民の思いが結実し、県下で最初で最大の払下げの歴史的な日になったのです。(写真:秋の浅間山麓)