田代地区を歩く(その3)…「田代湖造成」は大きな社会事業だった!


田代地区を歩く(その3)…「田代湖造成」は大きな社会事業だった!
田代地区は標高も一番高い位置にあり、田ができない。大正末当時の様子を記した話に、おもな作物が粟、ひえ、そば、馬鈴薯等が中心だったと記されています。馬の飼育や炭焼きも盛んで、馬で信州側との物資の運搬業も貴重な現金収入だったとあります。決して豊かではないこの地がざわめき立ったのは大正8年前後に吾妻水力電気(株)が田代に入ったからでした。発電用のダム(湖)を作るため、畑は坪1円、山林は10銭で買い上げたのです。当時は200円あれば家が建てられましたし、米が1俵7円の時代です。工事がすぐに開始されるとバラック造りの家ができ、数千人ともいわれる人が入り、商店ができ、簡易病院が造られて田代は街になったと言う。施設の大型機械は草軽軽便鉄道の嬬恋駅(芦生田)に届き、そこから数百人の人達によって運び込まれました。(従事した大半は朝鮮の人だったと言われています)田代湖はT15年11月1日に運転を見たのですが、その前に今井の発電施設が完成していましたので、電気は12年から供用が開始され一層の普及が進みました。吾妻郡はM44年に名久田発電所の完成以降順次工事が進む中で田代が一番大きな施設となったのです。施設の完成によって、草軽鉄道は、石炭車から電気機関車に変わり、また、地元の農家は、レタスやキャベツなどの西欧野菜がよく売れた、と伝えています。田代湖と発電施設の造成は山間地域の生活を大きく変えて潤す大型公共事業でした。