浅間高原とは〈南木山〉と言われるのは何故?

歴史ある南木山から浅間高原へ!?
今年もあと1日。この間、いつも長い文にお付き合いをして頂いた皆さん、ありがとうございました。感謝をこめて?また長い一話。
これまでに、折に触れて浅間高原だの南木山(なぎさん)だのって記してきたんですが、浅間山の麓ならどこでも浅間高原と言ってもOKですよね。嬬恋〜北軽井沢にかけての浅間高原は昔、南木山と言っていたところなので拘っています。南木山は江戸幕府、明治政府の直轄地で、その範囲は鳥井峠から旧倉渕村堺の二度上峠までの東西3里南北1里とされていました。その面積は13,634町歩と広大で、嬬恋村の面積で言えば1/3に匹敵する広さでした。願が叶ってM35年12月10日に払下げられ民有化されると5つの村で「南木山組合」が組織されて配分が進み、使命が達成された大正11年に解散したのです。同時に南木山も終わり、村も嬬恋村長野原町となって名前も薄れていきました。でも、正式に地名とならなかった南木山とはどこからきた呼び名だったのでしょうか?

そのヒントは軽井沢の旧中山道の峠にある熊野神社にありました。社の中央で群馬側と信州側とにまたがって国境に位置し、三社が祀られ、群馬側の右が新宮、中央が本宮、左が那智社の配置で、まったくの紀州熊野三社を配しています。これを奉祀したのが日本武尊だと古来より伝わっているのです。その話とは…東夷を征伐した武尊は武蔵上野を経て坂本に到り、いよいよ碓井の峰に登ると、山に住む神が白鹿に化して立ちむかった。これを武尊が退けると急に濃霧となり道が判らなくなった。すると武尊の前に一羽の八咫烏が現れ、目の前に梛(なぎ)の葉を落として先導した。無事に峠に着いて、武尊は熊野神霊に感謝し三社を奉祀した、と言う話が基にされています。武尊に因む地名は沢山ありますが、武尊が霧でさえぎられた東方一帯が霧積山で、八咫烏が止まった岩が烏岩、そしてここから流れ出る川が群馬の烏川と呼ばれたと。そしてこの社の北西に位置する御狩、鷹狩する官地を〈梛山〉と呼んだのだと思います。今は南木山と表記していますが、熊野速玉大社(新宮)のご神木が梛の木で、この木は関西から九州にかけて分布する文字通り南の木ですから同じ意味になっています。 南木山と言う呼名が日本武尊に深く関わる地名であったことと、嬬恋村と言う村名のいわれは離すことができないセットの浪漫だと思うのです。
(写真はHP「全国熊野神社参詣記」より転写した碓井峠の熊野神社)