馬と暮らした村、嬬恋村

嬬恋村のどこの集落を歩いても、馬頭観音像の石造物をあちこちに見つけることが出来る。この村には334体も立っているからだ。ここに住んでいた人たちの、良く働いてくれた家畜に対する思いやりと、大切な家族の一員としての思いが供養塔から偲ばれて来る。

 わずか50年前まで、ほとんどの農家は牛馬を飼っていた。馬は田畑を耕し、荷物を運搬し、木材や木炭を運び、人も運んで良く働いたから一番大切な「生きる農具」として親しまれ、子供だって生産力として期待されていたから、人の気持ちが良く解かる馬は家族以上に可愛がられたものだと古老たちは言う。
浅間高原のこの村には、古くは延喜年間(901年〜)の頃より上野国内九牧に数えられる「官営牧場」があって官馬も育てている。江戸時代には松代藩上納米の輸送や、駄賃稼ぎとして農民の収入源として活躍していたから、1千年にも亘り人と暮らしてきたのだ。あの天明3年の浅間山大噴火で埋没した鎌原村は戸数118戸に対して馬は160頭もいた。やがて、明治の末から馬の増産ブームとなり、ここの馬が天下に名を轟かせるようになる。

馬産地嬬恋の栄光
 大正7年、村の戸数1,150戸、馬は1,260頭が登録されていたから農家には2,3頭はいて、盛んに馬の仔取りが行なわれるようになっていた。馬は普通11ヶ月で出産するから4〜6月上旬に種付け(受精)をやり、翌年の3〜5月に生まれた子は大事に育てられ「とうねっこ」と呼ばれ、その秋には売れた。村の種付け場(現在の役場敷き)で毎年秋に盛大なセリ市が3日間ひらかれ、150頭前後の仔馬がセリにかかった。「バクロウ」師と呼ばれた買付け人は遠くは九州や四国からもやって来て、30円,50円から100円にもなった馬がいたという。米1俵5円位の時代であったから仔馬取りが農家を潤わせ、大いに村を活気づけたのだった。種付け用の種馬も国有馬4頭、県有馬3頭が用意されていたがその値段が面白い。国産1円、仏産2円、アラブ系3円、英国サラブレッド系4円の明快なランク付けだ。それでももっと良い馬を求める気運から、村の資産家がオーストラリアからサラブレッドを500円で購入してたくさん種付けした話も残っている。群馬県と言う名にふさわしいとはいえ、浅間高原嬬恋の馬は高く世に評価されていたのである。

良馬を求める時代の風
 明治維新以降、唯一の陸運の機動力として馬の需要が高まり、村は国から産地の保護を受けるようになっているがそれだけで良馬産地になったのではない。明治16年、殖産振興を願って北白川の宮様(能久親王)の直営による「吾妻農林牧場」が浅間高原の東側に開場した。2100haの広大な土地に大きな7つの厩舎が建ち、指導者,獣医もいて馬の改良が盛んだった。 遠く福島県,北海道はもとよりフランス,米国,英国から良馬を盛んに入れたといわれる。その子孫が地元に残ったのだ。また、軍用馬としても要請が高かった。戦時中は「軍馬補充地」の指定をうけたが、村の西部地区には昭和の早い時から軍の演習地があり、昭和10年には近衛師団(皇室を護る隊)の大演習が行なわれるほどの所だった。ここには東部127部隊が置かれ400人前後が常駐し、たくさんの厩舎もできていた。村は農耕馬、軍馬などで溢れ、名実ともに馬の産地として大きな賑わいを見せたのである。
 しかし、昭和も30年代中頃からの経済の進展により、農業の機械化がはじまると馬の姿は急に減りだし、いつのまにか消え嬬恋から去っていった。馬が去る時、どこの家でも家族で泣いて別れたと言う。人の気持ちがわかるのか、去って行く馬の寂しい眼を今も忘れず語る人達がいる。  変わる時代の中で、馬頭観音は人々が艱難辛苦のなかでも最後まで家族のように大切にしてあげた時代の確かな信頼を偲ばせながら、今も陽光を浴びて静かに立っている。