鹿沢地区に残る陸軍予科士官学校跡地

 
 鹿沢・湯の丸線の『陸軍予科士官学校跡地』は何があったのでしょう?
鹿沢湯の丸線がパノラマラインと交差するところにある碑を久しぶりに眺めました。先の戦争がグッと身近に思えるようになったのはここが始まりでした。村には記録が少なくて学校でも誰も教えてくれませんでしたから、仕事の傍らに調べたり、老人たちに聞いたり、士官学校の卒業生にも取材しました。それに、ここで教官だった人にも会いましたが、偶然最近になってその人の様子を知りました。…この鹿沢の演習地と北軽井沢を合わせて浅間山麓の土地5200haを買収したのはS17年でした。陸軍は本土上陸戦に向け、長射程砲の演習訓練用でしたが鹿沢には1個連隊が収容できる規模の施設が18年春に造られ、朝霞にあった予科士官学校生約1,000名が入ったのです。しかし戦局の急な変化とともに、さらに『127部隊』が入りました。この隊は豊橋から編成されて来た特殊な隊で野戦飛行場設営隊でした。田代地区はまさに軍都さながらでした。この特殊隊は訓練後に新潟から門司港へ行き、さらにフィリピン方面へ大型の徴用船で出港したのですが激しい攻撃を受け、全員亡くなりました。鹿沢が最後の地でした。鹿沢にはこのあと相模原の士官学校生約360名が入っています。この時の教官だった人にむかし会いました。あの陸軍中野学校から来た教官でした。若い自分にはすべてが謎でした…。