田代地区に残る「義勇軍」という地名

◆地名が伝える少年農兵の歴史



田代集落から鹿沢温泉に行く道路がパノラマラインと交差する場所の右側一帯、そのわずか西方の高台の耕地を地元では「義勇軍(ぎゆうぐん)」と今も呼んでいる。 
交差点の角には陸軍予科士官学校跡地の碑が建っていて戦時下に一帯が利用されていたことは知られているとおりだが、ほど近い義勇軍と呼ばれる耕地の案内など何処にも無いから由来を知らないまま埋もれるのかもしれない。最近、古老から聞いたメモが出てきたこともあって初めてこの現地を訪ねてみた。
メモを整理すると・・・満州に渡った開拓民を守りながら、自らも開墾作業をして豊かな農業者を目指して学校の若い男達が農業実習に来てこの土地を開墾した。その農兵隊のような人を育てる学校が茨城県の内原にあって内原学校と言っていた。開墾には松井田町長をした中山さんと言う人が大笹に泊まって指導して開墾した・・・とある。眼下に造成された陸軍士官学校とは一応、別であったようだが、戦時下で両者は繋がっていたのかもしれないと思い、しばらく調べてみた。

関東軍満州国満蒙開拓団民、そして義勇軍
義勇軍を育てる学校は当時、茨城県の内原鯉渕村にあって「満州開拓幹部訓練校」と言われた。昭和12年の11月30日の閣議決定閣議に基づき翌年の1月には義勇軍が結成され終戦の昭和20年の終戦まで存続している。唯一の学校が内原に在って、全国から選ばれた15歳から19歳の少年達が組織され軍事訓練と農耕訓練を受け満州へと渡った。その数なんと86,540人にものぼり、このうち24,000人が帰らぬ人と記録されていて、まさに「満州に渡った少年農兵隊」の過酷な命運だった。内原学校は3年間の訓練期間があって、訓練の傍ら義勇軍として要請を受けて食糧増産のために各地に援農や奉仕活動に参加したと記録されているから、おそらく嬬恋は鹿沢の士官学校の要請を受けて開墾訓練をしたと思われる。
実際にどんな隊が嬬恋に来たのか不明だが、隊員の出身者は長野県がダントツで多く6,939人が記されている。長野は満蒙開拓者も一番多かったうえ、少年を義勇軍として送り出したのは信濃教育会などによって熱心に指導したからとも言われている。話は戻るが、義勇軍の母校、内原学校は「武装移民の推進者として知られる陸軍の東宮鉄男大尉と農民教育者加藤完治の合作」で進められ誕生したという背景があった。だから少年義勇軍が配置されたのは満州の開拓農民の先、ソ連との間「北満の地」に集中した。このため最初からソ連のおとりだったとも揶揄されている。日本の敗戦時、関東軍は開拓民や少年義勇軍達を置き去りにして先に引き揚げたので、開拓民や義勇軍の帰還は過酷で悲惨を極めた記録が残されている。
最近、長野原町で満蒙開拓者の実話に基づく映画「望郷の鐘」が上映された。北軽井沢や嬬恋にも引揚者が多くいるので関心も高かったと聞く。戦後70年、国策と戦局に翻弄された満州農民と少年義勇軍たちの歴史もまた戦争の記録であり、浅間高原はその人達が交わった土地でもある。

 ※写真上 茨城県にある「満州開拓幹部訓練学校」跡地に建つ碑(HPより借用しました)
 ※写真②③ 「拓魂」の碑。 無念の思いを残して多くの仲間が異国の満州で死んでいったことを、生きて戻れた人達が、忘れないように各地で「拓魂」を建てた。写真は嬬恋の中原開拓のもの。北軽井沢にある満州開拓の碑

 ※写真下 田代地区鹿沢線のパノラマ交差点から入った高台が「義勇軍耕地」です。