江戸〜明治、博徒で名高い群馬、嬬恋の寅五郎

「田代一家」 賭博の組頭、寅五郎の話

江戸から明治にかけて、群馬(上州)の博打うち徒、やくざは全国に名が知れていたという。短気な気質のうえ、鼻っぱしが強く、威勢がいいというのも、群馬の風土かもしれないが、吾妻地方は静かな方だった。わずかに嬬恋でも田代に縄張りを持つ「田代一家」を名乗る組があったが、峠越えをする人々を相手に賭博場から、テラ銭などを得て生業としていた。
組頭の名は寅五郎と言った。
当時、賭博打ちや、やくざは珍しくなかったが、寅五郎が有名になったのは、萩原進氏(郷土史家)によると、作家:子母澤寛が昭和37年の「週刊朝日」に寅五郎を書いたからと言うので、どんな話なのか、かいつまんで取り上げる。

・・・・・・当時、中之条に組みを構えていた鶴五郎が田代を超えて信州に行った帰りに、野天でバクチをする寅五郎の子分の姿を見つけ、テラ銭を巻き上げ深い負傷を負わせたことを寅五郎は知り、怒りとともに道を追う。勢い余って鶴五郎に言い寄ると、軽くあしらわれた。血が上った寅五郎が短銃を出したから鶴五郎は土下座してなお、縄張りの半分を渡して決着した。以降、寅五郎の縄張りは吾妻渓谷の先、雁ヶ沢から西吾妻が領分となる。その頃、峠を越えて流れ者の博徒、浜川酉蔵(甲州)という若いやくざが田代に来た。若造から金を巻き上げようとした寅五郎は勝負にはまること三日三晩。青ざめた寅蔵が負けた額が百両とでかい。文無しになった寅五郎は卑怯にも子分を使って寝ている酉蔵の首を絞めて埋めたのだが、いつしか寅五郎が殺したという話が広まると、寅五郎は浅間山のゴーロという溶岩の岩穴に隠れ、死んだことにした。10年後、田代一家は息子が後を継いだが、そのとき、ゴーロから寅五郎が運び出された、生きた姿で。眼は潰れ、腰が抜け、見るに堪えない姿で穴を出た。・・・時に明治5年9月8日のことであった。

子母澤寛はこれを昭和3年に、警察のやくざ担当から聞いた話として残した。
昔、田代の人は賭け事が好きだと聞かされ、まとまったお金が入ると上田で飲み明かす、とも聞いたことがあるが、寅五郎の話はそんな時代を思い出させる。 
寅五郎地蔵は、鹿沢線の田代の信号からおよそ500mほど行った道路横に今もひっそり立っていて、季節ごとに帽子が掛けられている。