地域の言葉「おてんま」は古き時代を伝えているか。

道路の清掃日、地区の相互扶助が残る活動、 「おてんま」とは。




嬬恋では春と秋に地域住民達で一斉に清掃活動をやっている。10月1日は秋の道路愛護活動の日。昔から行われてきた住んで居る地域の道を修復したり清掃する活動だが、日頃の倒木片付けや用水路の清掃、管理など住んでいる地区に係わる作業は住民の奉仕で行われていて、行政の公助に頼らない相互扶助が引き継がれている。 
水田のための用水路の修復や専用道の草刈り作業等があると「おてんま」といって奉仕が割り当てられることもある。地域のためにするこの奉仕活動を嬬恋一般では「おてんま」と言っているがいまならボランティア活動という事かも知れない。
ところでこの〈おてんま〉は御手間と記されることもあるが、〈お手馬〉からきていると云われていて、その元は「御伝馬(おてんま)」に由来する古き時代の言葉を今に伝えているようだ。ところがこの言葉がどうやらこのエリア以外には使われていないようで、時々その意味を聞かれることが多い。

なぜ嬬恋には「おてんま」と言う表現が残ったのか。

古くは〈おてんま〉という呼び方が宿場で馬による物資や文書類を継ぎ送りするために整備された伝馬制度からきているといわれます。江戸時代の前、武田信玄は伝馬制度を1540年代には諏訪地方でも確立すほど宿場と流通に取り組んでいます。徳川の時代になると更に整備が進みますが、宿駅伝馬制度によって宿場駅には幕府の公用のために一定の人馬が義務づけられ流通運輸の中心になりました。でも書類や荷物は出発地から目的地まで同じ人馬が運ぶのではなく、宿場ごとに乗り換え、継いで運んでいましたから、運搬量が多いと農家の人馬が充てがわれたようです。さらに運輸が盛んになると農家の人馬が荷物を運び、また商品を買って戻ってくる「手馬」の普及がすすみました。
大笹宿は武田信玄真田幸隆によって上州進出とともに作られた宿場ですが、江戸時代になると一層繁栄して、公用のための人馬が置かれたようですが大半は農家の馬が「中継馬」として活躍したはずです。それでも足りないとき農民が持っている馬を持ち寄って日帰り範囲の物資を運び、そのための作業馬を手馬、お手馬と言っていたという。大笹宿が栄えると信州米、飯山地方の菜種油から木綿類、塩、茶、たばこ等が頻繁に運ばれ、お手馬も駄賃稼ぎになったようです。嬬恋は林業も盛んでしたから農耕馬の普及が一般化したので、残された馬頭観音は340体と圧倒的に多く馬とともに暮らした時代が続いていたのです。馬を飼う人にとって「おてんま」は日常の中にあった労働奉仕だったのかもしれません。今に伝わるおてんまの由来話です。

 写真下:十返舎一九の「諸国道中金の草鞋」に掲載されている大笹宿の様子