アンニンゴ、上溝桜の食文化

ウワミズ桜はアンズと兄弟??




嬬恋の山野にはどこでも見かけるウワミズザクラ(上溝桜)、今その実が豊かにみのっているけれど、この辺りでは昔から関心の薄い樹木だから知らない人も多い。(群馬一帯もそうかもしれない。)  ところが、ひと月ほど前に新潟の守門岳登山の帰りにふもとの道の駅に寄ったら蕎麦のメニューに「アンニンゴ天ぷら」が名物として出ていました。興味深く訪ねるとウワミズ桜の花の天ぷらだと言うから驚きました。
店員は魚沼地方では古くらの山菜料理だと教えてくれたが、なぜ「アンニンゴ」と言うのか更に聞くと、杏仁豆腐のアンニンの香りと味がするからです、とサラリと返答された。
調理は、まだつぼみの時の房を取って軽く塩漬けのあとに天ぷらにするのだそうだ。また、塩漬けして保存したり、果実を果実酒にもして色々と使っていると語る。
アンニンゴは杏仁子と表記されて、まさにアンズの種の実(杏仁)同様の扱いをしているのです。後日、調べてみるとアンニンゴは疲労回復、食欲増進に効果とあり、りっぱな薬樹なのだったが、杏仁を知らなければアンニンゴと呼ばれなかったはずと思うとアンズの地方との不思議な繋がりが見えてくるようでした。
 ※上の写真2枚はHP「魚沼の里山」よりお借りしました。3枚目は嬬恋で咲く上溝桜の花。

何故、拡散しなかったのか?
古くは中国の西遊記三蔵法師が、不老長寿に効くと云うこの種子を探して旅に出たとも言われているのに、上溝桜を食す文化は限定的で隣接する群馬に及ばなかった。それは長野市の更埴などのアンズも同じことですが、おそらく大陸から渡来した人達のもとで育て、食文化を守ってきたから定着し、一族の故郷の食文化そのものではなかったか、という想像力が湧いて、古代史ファンの妄想が続きます。
ちなみに、古代信濃が5世紀後半から大きく変わりだしたのは、仏教と神道を巡る争いとして有名な蘇我氏物部氏の2大勢力下の時代に、信濃物部氏の強い支援によって馬の飼育が急激に広まり、多氏や渡来系氏族が進出したのがキッカケと言われます。そして前方後円墳が縮小され、信濃独自の積石塚古墳が多量に出現する転換期をいち早く迎え、ヤマト政権の協力下にありましたが、東国はまだ「狩猟民族の野蛮な国」状態(日本書記、景行40年7月の記)で東征の対象でした。日本武尊が東征ののち鳥井峠に立って三嘆した故事から嬬恋の地名となった、と言われる時代、ヤマトに属して信濃は独自の文化が育っていたのです。アンズもアンニンゴの食文化もこうした時代に育まれたとしたら、その先安易に普及しなかったのではないか、と古代史を想像するのです。なお、群馬についていえばヤマト政権の東国最大の拠点で栄えていました、念のため。

 ※下の写真は嬬恋の山野にたくさんある上溝桜の木(7/8)