黒岩姓はどこから来たか?

嬬恋で一番多い姓
嬬恋村には黒岩を名乗る姓がダントツ多く、かつてその数は471軒あったと言われますし隣接する長野原町草津町にも多数いて、群馬の北西部に黒岩姓は偏っているのです。なぜこの一帯に黒岩姓が多く、それはどこからやって来たのでしょうか。


黒岩姓については代表的な大笹地区にその由来が片々に残されていて、戦国乱世の時代に「ゆえあって、甘楽郡(今の富岡市)の黒岩郷から問屋・長左衛門五郎平は同志36名と神明地区(今の長井川原の砂井地区寄り)に来て農業に従事」と伝えられています。この神明地区に移った時は大篠村と呼ばれ、数年後に今のところに集団移転して村名が「大笹村」になったとも言われていることからみて、天正5〜10年(1577〜1582)ごろに移り住んだのではないでしょうか。
また、1561年頃、武田信玄に属した鎌原氏の家臣黒岩伊賀守が西上州の情報を逐一報告していたとありますから、先住者黒岩氏らによって先鞭がつけられていたのかもしれません。一族が移る時、長野原町にある常林寺、そして本家の富岡の最興寺の強い支援があったのは言うまでもありません。


長野原町北軽井沢の狩宿には明治になるまで関所があり、その近くにある「狩宿本陣」があって今も建物が残っているのですが、この家の屋号が「黒源」です。黒岩家のみなもとだったことを伝えています。5年程前に伺ったとき、「黒源と三原の中居屋(重兵衛が出た家)と大笹の問屋(長左衛門)の三家は黒岩家の祖として昭和初めまで寄合いを重ねることが代々の引継ぎだった」と言われたのを覚えていますが、一族の黒岩姓へのこだわりの歴史を見るようでした。

今、全国には黒岩姓が残る3大エリアがあって、ここ嬬恋を中心とした西上州エリアと埼玉武蔵越生越生黒岩、それに高知県土佐清水市に残る黒岩だと言われています。3大エリアの黒岩はそれぞれ地名や奇岩から発生したので相互に関係は無い、とも言われていますが、俗に「黒岩は南朝藤原北家流吉田大納言経長の末裔で、南北朝合体後、足利幕府の圧迫を受け全国に散った、そして吉田一族が上州七日市の黒岩村に土着した」とも言われているのでした。
黒岩一族の登場によって大笹村は宿場として栄え、嬬恋村繁栄の礎がもたらされたのです。
▼本陣だった黒岩家の建物 黒源を名乗る