浅間山は縄文人を潤したか。

日本最古の人骨が洞窟・岩陰から見つかった!

古代史に係わる大きな発見や新たな解釈が出るたびに、自分たちの祖先はどこから来たのかという血が騒ぎ想像力も浪漫も駆り立てられる気分です。
つい最近、隣町(長野原町)の岩陰遺跡から8,300年前の縄文人の人骨が見つかった、とアナウンスされました。(初めにことわっておきますが、昔は町村境も無ければ県境も当然ありませんでしたから、このニュースはここ一帯に係わる一大関心事です)

長期に住居として利用されたからその灰が骨を保護していたという今回の遺跡は「居家以(いやい)岩陰遺跡」と呼ばれ、縄文早期中葉の人骨を中心に6体が在ったと公表されています。またこの岩陰は15,000年ほど前から住居あるいは埋葬地として使われてきたと新聞は報じているところです。DNA鑑定を含めて当時の様子などの今後の見解が待ち遠しいところですね。
ところで、縄文(含む弥生)時代の洞窟・岩陰遺跡はこの近くの万座温泉の熊四郎洞窟遺跡や旧六合村の熊倉遺跡(ここは平安時代の山岳住居跡)や岩櫃山東吾妻町)の岩陰遺跡など多数が確認されていて、吾妻郡内の洞窟・岩陰遺跡は「吾妻洞窟群」とも呼ばれ群馬県の6割以上を占めると云われるほど多いのが特徴です。
それだけでは無く、長野県側でも、有名な佐久の栃原岩陰遺跡や万座温泉の西側の高地(1500m)にある湯倉洞窟遺跡(ここでは7,000年前の人骨を確認)や、菅平高原の15カ所に及ぶ洞窟・岩陰遺跡などが多く在って、やはり長野県の洞窟・岩陰遺跡の大半をこの一帯が占めているのだそうです。菅平のひとつ石小屋洞窟の土器は吾妻町の岩陰遺跡にきわめて類似が指摘されるなど、広い意味で環浅間山一帯に少なくとも8,300年前から5,000年以上にわたって高地に生活圏が形成されていたのかもしれません。
この時代には温暖化が進み、7,000年前〜6,000年前が温暖化のピークを迎えたとされますから今の東京駅あたりはもちろん海の中でしたよね。高地はナラやドングリ、トチの実など自然豊かでシカやイノシシ、熊などの生息もかなりに登っていたでしょうから狩猟採集する生活には好適地ではなかったかと思うのです。
でも、群馬でも長野でも山岳地帯には洞窟や岩陰はほかにも沢山あったのに古代人の利用した報告があまり見当たらないとも言われますから・・・なぜ浅間山周辺に集中したのか、不思議といえば不思議でとても不思議。
私もジオパークに係わっていますから浅間山の活動を見てみると、カルデラ火山形成に至る最後に今の前掛山の活動が始まったのがおよそ8,500年前とされ、これより1,000年間が最初の活動期(今は3期に当たります)になるので活発な活動は丁度縄文早期あたります。すでに浅間山麓は広大な地形が基本的に形成されていたはずですから活発な活動の直接の影響の及ばない範囲に縄文人は長期にわたり生活していたことになります。火山をどのように思い、信仰していたのかは不明ですが、噴火のあるたびに山麓では鳥獣類が騒ぎ逃げ出すことは知っていたでしょうから、噴火活動は狩猟の好機になっていたのでないでしょうか。火山に近すぎず離れすぎない高地の暮らしが快適で長く継続した背景を想像する環浅間縄文文化です。
 ※上の写真は長野原町長のFBよりお借りしています。