長篠の戦い、長篠城と医王寺を訪ねた

 12月中旬、愛知県の新城市へ。




真田氏が地方の武将から戦国大名になったのは武田軍と運命を共に過ごし、多くを学んだのは間違いないけれど、その武田軍が織田・徳川軍に大敗し衰退に向かう戦いが長篠の戦い。群雄割拠する時代の流れが大きく変わりだした節目で、武将たちの生き様も翻弄されたのです。真田氏は2代目頭首信綱と弟を失い、真田の忠臣だった鎌原城主(嬬恋)も一陣の煙として消えたことを知ると残された妻は鎌原城で自刃に及んだと伝わっています。昌幸は武藤家から復して真田の家督を継ぎ、直ちに一族の守護神の山、四阿山の蓮華院に安堵状を出しています。激しい攻防戦で長篠城を守り抜いた奥平一族(群馬吉井町出身の一族)はすぐ近くの医王寺に本陣を構える武田勝頼軍から少数で城を守り抜きましたが、戦い済んでその一武将(林 主人)が今度はその医王寺(曹洞宗)で出家しています。奥平一族が上州富岡に移ると富岡の最興寺の住職となり、そこから縁あって嬬恋の菩提寺、常林寺第5代目住職に就いたのです・・・富岡の黒岩一族の大笹移住を支え、大笹宿形成にも尽力したのでした。ミッションを果たすと林僧侶は軽井沢に移り泉洞寺を開基しています。長篠城と医王寺は嬬恋と縁もゆかりもある舞台でした。嬬恋から訪ねたと告げると医王寺では隅々まで案内を受け接待して頂きました。
数奇な運命の歯車が動いた現場は中央構造線フォッサマグナ)の線上にありました。

写真上から①医王寺です。
     ②医王寺の先代住職が収集した資料を展示する資料館が境内にあります。
     ③奥平一族についての案内版
  下は12月中旬の長篠城址で、すぐ近くに公設の資料館がありました。