長篠の戦いが終わって武将は出家した・・・

戦乱の世に、苦悩する侍・さまよう僧侶



縁があって、10月に長篠の合戦の舞台となった愛知県の新城市を訪れる機会ができた。武田軍には群馬の武将もたくさん参戦していたが、死者、負傷者も多かった。
これは嬬恋・応桑地域の菩提寺・常林寺の第5代の住職になった僧「心庵宗祥」(元和元年〜寛永2年/1614〜1624年在職)の話である。
群雄割拠する戦国の時代、覇権を争う戦いに地方の豪族や武士団も存続を賭けて参戦することが多かった。嬬恋を配下に治めていた鎌原氏は真田氏の一族でもあったから、武田軍とともに行動し、奥三河長篠の戦い(1575年)に参戦している。最強とも言われる武田軍は、配下から徳川方に寝返った武将奥平貞昌氏の500人余が立てこもる長篠城を15,000人の兵で囲んだのが「長篠の戦い」の始まりであった。これを好機とみて徳川・織田軍が迫り、設楽が原で決戦した。 奥平氏族は長篠城を決死の働きで死守した。長篠の戦いは武田軍の大敗となり真田も当主信綱兄弟を失い、鎌原氏も筑前守之綱が戦死し、この戦いによって織田信長の力が強大化し、武田軍衰退の始まりへと歴史はドラスチックに動いた。

平氏族は、乱世を今川、徳川、武田そしてまた徳川に付きながら生き延びた。その長篠城に立てこもって戦った武将の一人に、林 主人(もんど)という侍がいた。
平氏族はもともと群馬の甘楽郡吉井町下奥平の出身である。のちに家康が関東入国(1590年)と一緒に上州宮崎(現、富岡市)に封じられ3万石へといわゆる昇格をしたが、林主人は、長篠城の戦いの後に、近くの医王寺で出家し僧侶となって富岡に来ている。富岡の曹洞宗最興寺に身を寄せたうえ、さらに最興寺の末寺の浅間山の麓にある常林寺の住職としてこの地にやってきた。山間の農村の寺は静かで、遠く俗世を離れたと思ったに違いない。信玄に仕えていた時、信玄の上洛を控えて敵地での怨霊を残さないように残忍な殺戮にも立ち合ったはずであるし、長篠城の時には近親の武田軍とも戦い、生き地獄を見たのかもしれない。僧侶として供養すべきことが溢れていた。それに富岡の地から先駆けてこの地に移り住んだ黒岩一族を加護することも僧としてのミッションに在ったのかもしれない。
ところが、住職となった林主人に静かな山間の寺の落ち着きは訪れなかった、と思われる。
やって来た西上州は武田の配下になった場所であり、武田に仕えた真田氏の領域であった。さらに、住職となった常林寺は鎌原氏の創建であり直接の菩提寺である。また、黒岩一族が一番多く移り住んだ大笹村は、鎌原氏と真田氏らによって計画的に作られたような宿場村であったから、世をはばかること数知れない心境が浮かぶ。10年在職した林主人の心の内を残した物は残されていないが、常林寺の末寺として信濃追分(現、軽井沢)に泉洞寺を開基して移り住職となって活躍している。その後、九州豊後にも行ったと言われるが没年は今も不明のままだ。長篠、富岡、嬬恋、軽井沢そして豊後。今生きているのなら会ってみたい人物だった。
写真解説(上から)
  ①長篠城跡に立つ碑
  ②出家した医王寺、武田勝頼が攻撃の本陣とした場所でもある。
  ③長篠の決戦の舞台となった設楽が原にある真田信綱兄弟と鎌原氏の供養碑
  ④設楽が原に立つ真田氏、鎌原氏墓所案内札
  ⑤鎌原氏の菩提寺、常林寺。同じ名前の寺は合戦があった設楽が原にもあった。