祝 NHK大河ドラマ「真田丸」  大笹宿誕生

〈大笹村〉は嬬恋村で最初の都市計画で作られた!?

嬬恋村が合併してできる前の12村のひとつ、大笹村は唯一商人の街として発達した地域で農村に在って独特の発展をしてきた。その大笹村の当初は今のところではなくて上流の吾妻川を渡った北山開拓の入り口、神明と言う地名あたりから川沿いに砂井地区方向に形成されていた。北に山を背負った南面の地が大笹(旧・大篠村)村だった。ここに天正元年(1573年)に大笹の問屋の先祖、初代長左衛門が同志36名と一緒に移り住み農業を始めたと記されている。地理的には田代地区と干俣地区との交易に極めて条件が良い場所でもあったし生活湧水にも恵まれ、何よりも大雨災害時等に氾濫する吾妻川の左岸が安全なルートになっていたから、9つの集落は左岸にあって繋がっていた。(※当時、田代地区は大笹の集落の一部で轟新田と呼ばれていた)
しかし、何故吾妻川を前後二度も越す現在のところに移転するようになったのか記録した文献の無いまま今に至っている。それに初代の長左衛門は財力がありながら山村で農業をすること自体が少し不可解でもあったから、当時の時代背景と資料から推測してみる。

今から約440年前の天正元年、武田信玄が伊那で病死しているが、その4年ほど前に信玄は沼田攻略のために岩櫃城に入っている(元亀2年)。このころ武田軍は西上州に兵力を集中していた。侵攻のルートのひとつに家臣真田幸隆の居城から鳥井峠を経て吾妻に来る信州街道があったが決して安易な道ではなかった。元亀3年(1572年)の8月上旬、信玄は真田昌幸を先陣の大将にして鳥井峠から吾妻を横断している。この時の記録に、黒鍬隊という道路工作隊を尖兵として途々新道を開削しながら白井城に乱入、とある。上田から約40km余りの大笹村は軍団の休憩地として当然適地になり、沼田を支配下にする時にもその重要度は高かったから交通の伝場所、つまり中継ぎの駅としての宿場が構想され、そのための新道が今のところに開削されたと思われる。一集落だけでは出来ない事業であったが吾妻川の右岸に新しい大笹宿を望んだのは真田氏だけではなく、右岸側を支配していた鎌原氏の望むところでもあったはずである。そしてなにより信濃の沓掛、信濃追分や万騎峠から高碕に至る交通が拓ける場所でもあった。自然発生的な集落ではなかったから道路を中心に左右に区画が整然とした今の大笹地区の姿が造られている。その形は宿場街の造りとなっていて、鎌原地区と基本的に同じ形成をしている。

さて、大笹に集団で移住した問屋の長左衛門一族は本当に農業のために移ってきたのか。そもそも長左衛門一族は黒岩姓を名乗っていて、移住には支配者鎌原氏が開基した寺、常林寺とことを進め、常林寺の本寺、富岡最興寺の支援を得て黒岩一族が移住したと見るのが妥当であるが、それも農業ではなく新しい駅、宿場を作ると言う内義が図られていたのではなかったか。真田氏にとって西上州支配の重要な戦略路となって大笹村は要衝の地として発展し、北国街道の脇往還として栄えた。 1652年には真田氏の私関として大笹関所が設けられ、のちに幕府直轄の関所として幕末まで続いた。また当初の大笹の寺は真言宗の一乗山長盛寺から常林寺の末寺、無量院に替わった。(1684年) 
新しい宿場村を胆力のある人材で成し遂げた大笹は真田氏の活躍した時代に興され、今も独自の風習を残している。

(写真上:廃止されて残る神明神社跡  中:大笹関所碑 下:空撮による大笹集落)