真田氏の祈願所、大笹の寺・無量院

大笹邑の六連銭の寺

大河ドラマ真田丸」も始まって2か月。天正壬午の乱の真最中で、生死を賭けた武将や国衆の思惑と駆引きがスリリングですね。旧真田町に隣接した我が小さな村にも真田一族の残した足跡が驚くほど多いけれど、取り上げる機会に恵まれなかった感もありますから、この機会に拾い上げてみようと思います。



大笹地区の菩提寺・無量院はその本院が曹洞宗常林寺で、家紋は真田氏に縁深く同じ六文銭となっています。ところが末寺だからと言う理由で無量院が同じ家紋を使ってきた、というのでは無く、ふたつの寺はそれぞれ別の理由でした。

無量院はむかし一乗院と呼ばれ、大笹の「十二さんの森」と呼ばれる土地(現在の反対側の一帯)に在りました。弘治年間の1557年に京都の真言宗の東寺から薬師如来仏とともに一乗院大法上人が来て真言の教えを広めるために草庵していますから戦国の世に無量院の元が造られたのです。もともと吾妻川河南は武田領であり真田氏の安息の地でしたから、天正壬午の乱も終息する1590年、小田原の役の後、真田氏は沼田城、西上州を安堵されたこともあって昌幸の長男・信幸がこの一乗院を訪ねました。その様子が無量院にある一乗院大法上人の位牌に漢字で残されていたのです。読み下し文で見ると・・・

弘治年間、(一乗院大法上人が)旧薬師の地に草庵を結び、持仏の薬師尊を安置して住す。天正18年庚寅(1590)夏、領主豆州(真田伊豆守信幸)領内巡視の節、現地に堂宇を建立し、寺録を添えて上人に寄進す、当院は開基真田氏の祈願所也。(慶長2年丁酉(1597)4月6日 上人82寂  

という旨が残されています。そしてこの時の信幸の〈寺録〉の内容とは、十石の領地(玄米換算25表くらいか)と六連銭の家紋を寺に授けるというものでした。これ以来、寺は六文銭を掲げて今日に至っているのです。
その後一乗院上人は、当時悪い流行病を鎮めるため生身仏として自ら埋められ7日7夜経文を唱えて亡くなって人々を救ったと伝えられました。のちのちまで村人に「いちじんさま」と呼ばれ供養されてきました。その供養塔は村の文化財となって残り往時を偲ばせる碑です。
一乗院はその後、1610年頃、禅宗の一乗山長盛寺となり閑居寺にもなって、今の地に移り1684年、常林寺の末寺になったと記録されています。

時に真田信幸と一乗院上人の出会いは上人75歳、信幸25歳の夏でした。真田氏によって安堵された大笹地区は(当時はまだ大篠邑)はやがて各地に飛散した武田の家臣らが身分を変えて多く移り住み、大笹宿として想像もしなかった発展を見るのです。

写真:上 一乗院大法上人「いちじんさま・ごりんさま」の供養塔。寺の入り口近くです。
   中 火災を免れて残る庫裡には六連銭が残されています。
   下 一乗院上人の位牌を撮らせていただきました。
写真下は現在の無量院です。山号は「吾妻山」を名乗っています。