真田、武田氏が信頼した鎌原氏の居城地

鎌原城址、整備され甦る。

武田信玄の西上野(上州)攻略拠点となった鎌原城は訪れる人も少なくなって林の中に静かに佇んでいた場所。その城は真田氏による西上州支配およそ120年の歴史が始まった最初の舞台でもあり学術的にも評価が高い。真田丸の前に史跡鎌原(かんばら)城址を訪ねた。



第4次の川中島の戦い(1561年)の前年に上杉謙信はすでに関東侵攻に動いていた。それを許さない武田信玄も上州攻略の拠点の確保をすすめ、1561年4月11日から真田幸綱(幸隆)を従軍させて上州攻略を開始している。この時、真田を通じて武田の武将だった鎌原氏は、吾妻統一を目指す上杉色の岩下城主斉藤氏、羽根尾城羽尾氏の連合によって一時、信濃に追い出されいたが信玄の出陣とともに鎌原城に復帰した。信玄は6月に再び出陣するために鎌原城真田幸綱、祢津常安、常田新六郎らの武将を配備し、鎌原氏とともに西上州侵攻の先兵隊がここで編成され、箕輪城や嵩山城の攻略に出陣して行った、と言われている。
同祖同族が多く比較的安泰だった西上州は上杉、武田、北条らの国取りの舞台となっていくのでした。嬬恋はこの時すでに吾妻川を挟んで河南(吾妻川右岸)の武田、河北(吾妻川左岸)の上杉側に色濃く分かれていた様子が浮かびます。 余談ですがこの本格的な西上州侵攻の前に1562年、真田幸綱は吾妻郡の主峰四阿山に白山社を造営祈願し、一族の命運を託している。
鎌原城址は新春NHK大河ドラマの前にようやく姿をあらわし、往時を偲ばせる場所となっていた。