修験の聖地、四阿山について

四阿山修験道について。
夏の終わりから村の郷土資料館に少し通ってみました。
熊野信仰と白山信仰はどのようにして四阿山(2,356m)で栄えたのか、何故 熊野信仰は衰え白山信仰となったのかなどと、長く自分の中で解らなかったことがようやく、手が付けられた思いです。

最初の手掛かりは、天明3年の浅間山大噴火で埋没した寺「延命寺」の出土品にありました。
三鈷杵や五鈷杵(写真)また五鈷鈴などの修験系が用いる装具が出土していて、延命寺天台宗であってなお、修験系に近い寺であることが伺われるのです。発掘の調査報告書にも同じような見解が記載されていました。 もともと修験道は日本古来の山岳信仰と仏教などが混ざり独自の発展をしたのですが、江戸時代には体制を維持するために修験道法度(1613年)を出すほどでした。その法度により、修験者は真言宗の当山派と天台宗派のどちらかに属さなければならないとされたのです。どのように所属をしたのかは解りませんが、その天台宗が祭っていたのが「熊野三所権現」なので、鎌原の延命寺に盛んに訪れた修験者は、熊野権現を祀る霊山・四阿山への中継として延命寺に訪れ、そして寺は栄えていたのだと思えるのです。修験者のネットワークがもたらした情報と文化によって鎌原村は進んだ田舎だったことが出土品から見てとれます。しかし天明の大噴火(1,783年)によって延命寺が埋没すると、門貝地区にある熊野神社を中心に信仰は残っていきますが、次第に真田一族が信仰した白山信仰へと変わっていった様子が伝わってきます。
鎌原観音堂には古くから伝わる修験者(開祖・役小角像?)の木彫りが大切に残り、今も安置されています。(写真)