9月1日、防災の日 小串鉱山その悲惨な災害

小串硫黄鉱山の山津波大災害は硫黄にも火が付いた・・・

今日から9月。広島県の土砂災害、長野県南木曽町などの大きな災害の中で防災の日を迎えた。お見舞いの気持ちしか言えなくてもどかしいが、ここは脚下照顧。山津波に襲われた嬬恋の小串鉱山の様子を村誌から拾いだしてみる。

 
昭和12年 (1937年)11月11日午後6時半、すでに闇に閉ざされていた午後6時半、嬬恋村役場に手足を血だらけにした男が飛び込んで来て、「山が崩れて小串が全滅した、至急援助を頼む!」と当直員に伝えた。
村の消防団青年団に全員招集がかけられ、村長、警察署長を先頭に500人からなる救援隊が、夜の山道を鉱山へ向かった。
山はこの日の午後3時半ごろ、毛無山(1941m)の山腹、1750mほどあたりで土砂が幅500mにわたって土砂崩れが発生し、山津波となって真下にある精錬所、事務所、社宅、学校、分教場など、鉱山の施設すべてを一気に押しつぶしてしまった。家屋や精錬所などの半分は土砂に埋まり、半分は谷底に押し出されたが、精錬所の焼き窯の火がそれらに燃え移り、毒ガスを吹き出しながら硫黄独特の青い炎が、まるで鬼火のように次々と燃え広がり、火薬庫も大爆発を起こしていた。
駆けつけた消防団も、手の施しようがない地獄絵図だった。カンテラを下げた坑夫が、妻や子供を探して手当たり次第ひっくりかえしていたが、この事故の起きたときは父や夫を送り出して家庭で留守番をしていた妻や子供の犠牲が多かった。社宅70棟、350戸が埋まり、授業を終えたばかりの分教場では、校庭や教室に118人の児童が遊んでいたがそのうち31人と教員夫妻が犠牲になった。採掘作業中の男たちは、坑口は埋まったが無事だったという。役場に駆け付けた高木さんは、坑道から4人でトロッコを押出したとき山崩れに遭った。一緒の3人は津波に呑まれたが僅かの差で坑道に残されてから、やっと坑口を掘って出たが、あまりのひどさに呆然としたと言う。電話も通ぜずそのまま役場に駆け降りて一報が伝わった。245人の死者を出した大惨事であった、と記されている。
大惨事にも拘らず、広く知れ渡らなかったのは、この年の7月、日本は盧溝橋事件が起こって日中戦争へと傾斜している時代でもあったせいか。写真は復活した小串鉱山の昭和40年頃の様子。
 (参照:嬬恋村編集委員会編「嬬恋村誌 下巻・小串鉱山の山津波」より)

下の地図は昭和40年頃の鉱山が入った嬬恋村の地図です。