嬬戀村・・・大好きな地名です!

嬬戀村…浪漫の地名と恋のこころ!?      
 信州の4市1町1村と接する関東最高地の村、嬬戀。古代史のヒーロー日本武尊蝦夷を制圧したのち東山道坂本宿から難所の碓氷峠に登る途中、地の神を退けたが深い霧にまかれているところを紀州熊野の八咫烏に救われた。くわえていた梛の葉から、浅間山麓(現在の浅間高原)は南木山(梛山)と呼ばれた。なおも抵抗する佐久族をさけて日本武尊は梛山を通って鳥井峠に立ち、いよいよ関東と別れるとき、相模灘に身を沈めた妻弟橘姫を偲び「吾嬬者耶(あずまはや)」(あゝ、わが妻戀し)と三嘆したのだ、と言う浪漫を地名にした吾妻郡嬬戀村。

嬬戀村は明治22年市町村制施行と共に11の村落が合併して誕生した。郡役所(中之条町)に届け出る予定の名前は当初『吾妻村』だったと言う。すでに「南木山組合」を通して五か村は北白川宮牧場の駅名「吾妻」の由緒ある呼び名に親しんでいたから11村の合意のもと、干俣区長が代表して届出に行ったのだが、一番遠いため(勿論、当時は徒歩で)途中、川原湯温泉で一泊し翌日に申し出た。ところが、同じ名前が既に二件、受理されていた。吾妻町とあずま(東)村だ。相談を受けた県の文官は、日本武尊との係わりと、宮様に因んだ名称として〈嬬戀〉を勧め、11村は新たに嬬戀村としてスタートしたのです。
余談ですが、文中で「恋」を「戀」と記したのは正式表記が嬬戀だからです。いつから変わったかまだ調べていませんが、戦前戦後まで、国語の常用漢字表は「戀」の字は外されていました。なんとその理由が「恋は大人になってから学べばよい」とまことしやかに議論されたからと。登録されたときはすでに恋になっていたようです。団欒と言う「欒」の字などは作りが残っているのに、コイだけが亦(また)の恋だなんて!!(またの下に心=下心のある恋は現代的ですが)…私は、心ある言葉を介して互いの赤い糸を繰り寄せる文字「戀」を強く切望しているんです! ところで、「嬬」の文字もとても興味ある文字ですが、それはまたの機会に。(写真は正面が四阿山で、左下の鞍部に鳥井峠です)

「あが戀はまさかもかなし草枕 多胡の入野の奥もかなしも」(万葉集東歌)