浅間山の大明神は何故、入れ替えられたのか?

磐長姫命は祭神ではなかった!?

今は、浅間山に登る時に参拝するつもりで登ることも無ければ、山の祭神が誰なのか気にすることも無くて当たり前ですよね。それより火山としての山の知識ででしょうか。

戦後、高度成長に入るころまで、浅間山にも神様がいて、事あるごとに古老たちから「噴火鎮静、厄除け、罪過消滅」祈願の山の話が伝えられていました。村誌にも昔の伝承として、浅間山には怪力無双の鬼がいて清和天皇の末裔の武将が釜山近くで閉じ込められた鬼を助けると、鬼は山の守護神「鬼神」となった話が伝えられていますし、峰の茶屋辺りには鬼神堂もありました。この鬼をも閉じ込める霊力を持った主こそ、浅間山本地仏虚空蔵菩薩であり、永く崇められてきて、その石碑も浅間周辺に残されています。 ところで現在は、浅間山周辺に残る浅間大神(社)には祭神、磐長姫命(いわながひめのみこと)が皆、祭られています。嬬恋村でも係わりの深かった鎌原村の記録にもそう明記されていました。ところが・・・村誌に載った過去の神社の記録を見ると浅間大神は妹の木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)とあるのです。明治4年に政府が調べた「神社取調書上帳」に報告された記録ですから、間違ったのではないかと思い長野県側の浅間神社の祭神も調べてみました。するとどうでしょう、明治になるまで浅間周辺の長野側の神社7社もすべて祭神は木花開耶姫命とあるのです。さらに不思議なのはそれがM10年以降どの社の祭神も磐長姫命に見事に入れ替えられているのでした。一体なにがあったのでしょうか。

明治になった時、政府は王政復古をし、それまでの神と仏の共存、神仏習合を引き離し、神道を国家の祭祀に位置付ける大宗教改革を矢継ぎ早に行って神仏分離をしましたから、廃仏毀釈のうねりは嬬恋でも修験道と一体化した石仏の破壊まで行われるなど一陣の嵐となりました。でも、木花開耶姫命が入れ替わる理由は見つからず、軽井沢の図書館にしばらく足を運びました。
明治維新における神道の復古運動の中心だったのは平田篤胤らの国学者達ですが、まさか浅間山のことにまで関与していたことを知ったのは、小諸の郷土史家岡村知彦氏(1943〜)の浅間山信仰の著書でした。氏によれば、平田篤胤は1851年に沓掛に泊まり、「御代田物語」を知った。そしてそれを基に自書『古史傳』(文政8年)に記され、それが基で『日本傳説叢書・信濃の巻』に載ったことから、明治維新を推進した者たちは教条的に引用したのではないかと言いいます。どこで違ったのでしょう。問題なのは「御代田物語」だけが浅間山の祭神、磐長姫命となっていたことを指摘しています。富士と浅間に係わる伝承は簡易に言うと、琵琶湖と諏訪湖を掘った土で富士山と浅間山が出来たから山の神大山祗命は子どもの姉、磐長姫を富士山に、妹の木花開耶姫浅間山を与えたというお話ですが、御代田だけ違って伝承されていたことに起因したことを知りました。それは明治政府の思惑通りだったと言うことかもしれませんが、明治7年を境に浅間山の祭神は一斉に磐長姫命に入れ替えられて今日に至っていた、ということでした。明察。やはり浅間山木花咲耶姫命なんですね。
木花咲耶姫の写真はHP「日本神話の世界」より借りました。