杏雲堂、佐々木政吉氏が支援した浅間高原の払下げ運動

浅間高原(南木山)解放活動を支えた、佐々木政吉氏
 先日、神田雪ダルマフェアーに行ったとき、近くの杏雲堂病院に寄ってみた・・・・


嬬恋村が誕生する直前、浅間山麓一帯には広大な国有山林(約13600ha)を生活の糧にし深く係わる六カ村があった。新しい明治政府は土地政策を次々に改め、南木山についても300年も続いた山を利用する権利、入会権を否定し、山稼ぎの禁止令(M16年)も出されたから山麓の村は大騒ぎになった。そしてついに農民359名で政府に請願書を出すことになる。国有地の払い下げを求める運動は一気に盛り上がった。たび重なる請願を政府はことごとく却下し続けたので、運動が行き詰ったその時、一人の大陸浪人、本城安太郎氏(1860〜1918)が現れ、一人で交渉代願人を受けると告げる。当然、半信半疑であったに違いない。彼の条件は二つ。成功時に①立木を面積の1/2渡す②土地は1/3渡すことであった。信じられない条件に止む無しの声が多勢を占めるほど疲弊感があり行き詰っていた。

本城氏の執念とも思える払下げ運動は10年にもおよび、農商務省と村を往復する。本城氏の活動は自費負担でおこなわれ逐一、報告が村にもたらされた。 吉報の電報が入ったとき、まさか!ほんとうか!年の瀬を前に村は歓喜で湧きたち、歓声が浅間山に響くほど上がった。時に明治35年12月10日の事である。のちに本城氏がこの運動に要した額は411円余と残されている。彼の人脈が結実した払下げであった。そのなかで終生、本城氏を支援したのが、近代医学の草分けとも言われる佐々木政吉氏(1855〜1939)であったことも判った。佐々木氏の仲間にはあの後藤新平氏(11857〜1929、医師・官僚・政治家.満鉄総裁等)もいた。払下げ運動を陰で支え続けた佐々木氏の胸像は千代田区神田駿河台にある杏雲堂病院の入り口に建っていた。嬬恋村鬼押出しのある小字名「モロシコ」と六里ヶ原一帯の「論ノトヤ」の最初の所有者として名を残している。