真田丸、鬼神の突撃

真田幸村、乾坤一擲の猛攻の前に立ちはだかった武将をみる。

1月17日、神田の冬も寒かった。雪だるまイベントの合間に、明治大学の前にある「大久保彦左衛門屋敷跡」を訪ねる。大阪城夏の陣から400年、碑を眺めていると戦国の風の音が聞こえるようだ。

・・・関ヶ原のあと、幸村は九度山にいた。なんの野心も見せず14年も隠棲したが、ついに大阪の豊臣家から声が掛かる。我が魂魄、使い切る時を得たりとばかりに馳せ参じ〈真田丸〉を組む。攻防二度目の夏の陣。突如として幸村真田隊は敵本陣、家康本隊をめがけて突撃。まるで鬼神の軍団となって猛迫したから家康の旗本たちが総崩れとなり、怯む家康の腰が浮く。信州の峰々にはあまた鬼が住むというが、いま眼前の鬼、鬼の化神に我は飲みこまれるのか、と思ったその時、側近の一隊が鬼の前に立ち向かった。今度こそ、今日こそ決着をつけてやる、と勇んだのは大久保忠教(ただたか)。第一次上田城の決戦で辛酸を味わった三河の武将だ。幸村48歳、一場の風となって鬼籍の扉を開けた瞬間だった。 家康は大久保を終生の腹心として扱い「板蕩(乱世)に忠臣を識る」。大久保は通称大久保彦左衛門と名乗って神田駿河台のこの地に移居し幕府のご意見番として活躍する。鬼を見た家康はやがて江戸城の鬼門を封じるために上野の森に寛永寺を建てて手厚く保護した、と思った。勝てど優れど、鬼にさいなまれる時代が此処にあった。

信州、長野市は今年、「鬼サミット」を開くと言う。我が浅間山の鬼も穏やかな立春を迎えている。写真の碑は神田杏雲堂病院前にある。鬼瓦の写真は福知山市HP「鬼の交流博物館」よりお借りした。