国定忠治と「忠治の隠れ岩」

池の平の「忠治の隠れ岩」とは?
師走の時代劇といえば忠臣蔵が定番であったが、国定忠治の人気も根強いと聞く。群馬で一番知名度高いかも知れないのに、忠治の舞台を全面に出せないから、昨今の群馬の知名度、イメージも低迷している、かな(?)。
群馬で有名な物に『上毛かるた』があって、その中に「雷と空っ風 義理人情」という群馬の風土、気風を的確に詠んだ一枚がある。渡世人のイメージが沸けば国定忠治をまず連想する。・・・ ということには関係なくて、自然ガイドをしていると、群馬と長野の気風の違いを感じることもあるし、解説の取り組み方も違うようだ。


湯の丸、池の平を散策すると湿原の正面端に「忠治の隠れ岩」という巨岩がある。隠れ岩はほかの地にも2カ所あるから、この命名に?と思う人も多いかもしれない。現地に詳細がないから、気に掛かっていたので調べてみると、意外なところに資料が残されていた。
国定忠治が処刑されたのは、明治維新になる26年前のことだった。(天保13年)縄張りが西上州だったから、不都合があるたびに自分の縄張りを通って長野側にしばしば逃れていたが、ついに「国定忠治が、三室の勘助親子を殺害し、信越方面に行くから取締り、逮捕せよ」と言う内容の命令書が関東取締役という役人から、廻状形式の命令書で各集落長宛に発せられた。集落は大柏木から始まって嬬恋の干俣止まりとなっていたから、各地区は写して保管、対処にあたった。その写しが嬬恋の現三原区の文書として残っていたのである。(萩原進氏の確認した話です)驚くことに、その命令書に書き添えられていた一文に、「その一味の者と思われる4人を、浅間越えして小諸に出る車坂で取り押さえた」と記されているのだ。それは、忠治の子分と思われる4人が捕まった場所が「忠治の隠れ岩」とほぼ符合すると思われる。9月25日のことだとも記され、26日には草津村に送られている。
その後、忠治は国定村の隣村で捕まえられ、江戸に送致、12月12日に判決が下り「大戸において磔」が確定し、暮の21日、大戸で大観衆の前で忠治は風花の舞う大地に帰している。 時代は違うが70年代に人気を博したドラマ「木枯し紋次郎」の舞台は上州新田郡三日月村の設定で、主題歌「だれかが風の中で」は国定とも重なり、上州の気風、気概を感じさせた。博徒渡世人、任侠の地、義理と人情の群馬の風土、風でもある。

 写真上:「忠治の隠れ岩」、HP「御代田だより」さんからお借りしました。
   下:池の平の全景、画面右寄りの山際に隠れ岩があります。