明治末、浅間山噴火被災者の記録

浅間山噴火に遭遇した田山花袋の記録

2年前に私も御嶽山に登ったから、今回の火山災害は色々と考えることが多い。
亡くなられた多くの方々のご冥福を心からお祈り申し上げたいと思う。
さて、わが村に聳える浅間山、最近は静穏期と言われますが、明治後期から昭和中期は活発な活動期でした。当時は今ほど火山観測が整っていませんでしたから、登って被災した人の記録も多かったと聞きます。明治38年の8月11日、群馬の館林市出身の文豪田山花袋は登山途中に噴火に出会って、必死で下山した様子を『浅間山横断記』に残していますから、被災はいかなるものか、ここは学んでおこうと思う。以下本文抜粋してみます。

「赤く禿げたる浅間山嶽は圧するごとく頭上に聳えて驚くべき大なる焼石は次第に道の両側に現れ来りぬ、顧れば日に蒸されたる六里ヶ原は一点の緑もなく我が眼下に横たわり・・・。あわれこの荒涼たる高原、まことに趣味もなく色彩もなけれど・我はおこの一嘱を限りなく面白きものと思わざること能はざりき・・・(中略)・・・日本一の活火山の絶顛を極めん、かく叫びつつ、我は真黒く蔽ひ下れる煙の方へと登り行きぬ。不意に山の鳴動する如く凄まじき音聞ゆ、あなと思いて耳をそばだつるより早く今まで絶えて無かりし風俄かに蓬々と起り来りて渦のごとく舞い下りし硫黄の煙は時の間に深碧なる大空を包み赫々たる日光を隠し、わが登りたる路も、やがてはその蔽う所とならんとす。
驚きて足を停めむとせし時、更に恐ろしき鳴動は頭上に聞こえて、もくもくと湧き出でたる雲の色の凄まじさ、続きて鳴動、鳴動、大鳴動・・・(中略)・・・怪しき硫黄の香気烈しく鼻を衝き鳴動の響きは絶ゆる間もなく幕の如き黒煙は猛もうと四面を襲い来れるに、いかんせんかと小時は思い迷いしが今更ぐずぐずして居る時にあらず、一刻も早く此山を下らざるべからずと思い定めて殆ど夢中で走り去らぬ。我ながら、わが身の如何を顧る暇もなく、只一散走りながらも、果たしようにも、このわが伝い行く路は、地獄に下り行くもののように感じられて、殆ど生きたる心地はせざり。」

と残しています。花袋は草津温泉からの帰途、浅間山に登って噴火に遭い、下山の山麓で山仕事の人に出会って、なんとか軽井沢までたどり着いたのでした。