幕末に生糸貿易で日本の近代化に先鞭をつけた男、中居重兵衛

祝 「富岡製糸場と絹産業遺産群世界遺産登録!

上州に花開いた「シルク王国群馬」を先駆けた人財
世界遺産登録は「シルク王国群馬」の時代を広く知っていただくとともに県民として群馬ここにあり、という感じが嬉しいですね。世界遺産になった施設群は今、いっぱい解説されているのでせっかくの機会ですから、この時代、シルクの物流王国を築いた人達に触れておこうと思う。

 江戸時代末期の安政5年(1852年)、幕府は米、英、露、蘭らと「修好通商条約」を結んで開国に動き出し、その港として関東では混乱を避けるために何もない横浜村が決まった。へんぴゆえに応募者が無いために要請に応じて出展したのが三井物産の基になった三井八郎右衛門と中居重兵衛であった。先鞭がつけられると多くの浜商人がここへ移ったが、とりわけ群馬県人が多かったのは、海外からシルクの需要が高まったのが要因にあった。 上州群馬から行った浜商人は中井屋重兵衛のほかに、群馬の三大尽と言われた加部安左衛門(東吾妻町川戸)、根岸清左衛門(吉井町)、藤生善三郎(大間々)のほか不入屋治兵衛(大間々)がいた。少し遅れて新里村吉田幸兵衛、藪塚の伏島近蔵、高崎の茂木惣兵衛らが活躍し、生糸は明治の初期の輸出額の60〜70%を占めたと記されている。地元の商人としては下村善太郎(のちの前橋市長)や沼田の星野宗七らが呼応して活躍し、「上州群馬→養蚕農家→製糸業→横浜」というシルクの巨大物流ルートが出来上がったのだった。
シルクを通じて日本の近代化に貢献した上州人たちの活躍が官営製糸場建設に多大な影響を与えたと言っても過言ではない。

先鞭をつけた中居重兵衛と言う人は単に生糸取引に係わっただけではなく、蘭語も使い、火薬製造の知識も深く横浜に「あかね御殿」と呼ばれる大きな店舗を構えていた。彼はここ嬬恋村の出身でもある。

中居重兵衛展!
中居重兵衛については嬬恋郷土資料館で特別展「中居重兵衛展」が始まり詳しく紹介しているので是非見て頂きたい。その波乱万丈の生涯に驚く筈だ。(11月4日まで開催中)なお、村民は入館無料扱い。(写真上は万座・鹿沢口駅前にある碑、下は三原にある墓地です。)参考文献 萩原進著「横浜開港と上州人」ほか