馬庭念流は浅間高原の一角で育った・・・

剣術、馬庭念流(まにわねんりゅう)・・・その開眼の地

小宿川左岸にある常林寺から高台の応桑地区に至る坂道の途中に数件の小宿集落がある。その集落の道沿い高台にお堂があり、脇道に入るとまもなく「真庭念流ゆかりの地」という標柱が古ぼけて建っている。そして「樋口高重新左衛門尉道場跡」と書かれていてここが「念流」の道場が置かれていた標となっていた。
私は武術に詳しくないが、この地から多胡郡馬庭村(現在の高崎市吉井町馬庭)に移って「真庭念流」と称され今日に至っているようだ。とすると馬庭念流の心髄は小宿の閑静な地で育ったことになる。
馬庭念流とはどのようなものか、作家坂口安吾は「真庭念流について」の中で次のように書いている。『剣法というのは元来貴人に依存してきたもので、剣士は将軍や大名に召抱えられることを目標に修業に励んだものである。ところがここにただひとつ在野の剣法というものがあった。それが「馬庭念流」だ。 代々草ぶかい田舎に土着して、師弟ともに田を耕しつつ先祖からの剣法を修業し、官に仕えることも欲せず、名利ももとめない。さればといって剣を力に、徒党をくんで事をはかるようなことはミジンといえどもしたことがない。師弟ともに百姓のかたわら剣法にはげむことを先祖代々の無上の生活としていたにすぎないのである。(中略)その真骨頂は百姓剣法をもって天職とし、草ぶかい田舎にこもって伝統の剣法を受けつぎ楽しんで出でて名声をもとめることを知らなかったその上の数百年にあるといえよう。』と。
小宿の道場跡地からは正面に浅間山を拝し、西に四阿山を望み眼下に小宿川を見る明媚な地であり比較的肥沃な畑地を抱えていて奥義を極める最適の地に見える。

長野原町誌によると、木曾義仲の四天王の一人で、信州伊奈郡樋口村に居していた樋口次郎兼光の11代目が「念流」(念流二世)を引き継ぎ、そして念流四世の樋口高重の代のとき1445年に上野国吾妻郡小宿村に移り、平井城主上杉顕成に仕えながら道場を構えた。そして1500年のとき多胡郡馬庭村に移って馬庭の念流「馬庭念流」と呼ばれ樋口家によって今日に至っている様子が記されている。(樋口家は六合村(現中之条町六合)赤岩地区の湯本家と繋がりが深い。)
広く町民からも支持された馬庭念流の原型は浅間高原の一角で育まれたことをただ一本の標柱がとどめている。


道場跡地から眺める浅間山です。