遠征、奈良の法隆寺、薬師寺

古代史の奈良へ

キノコ栽培の一連の山作業がひと区切りしたので先週末は休息日にした。思いたって見たいと思っていた奈良の法隆寺薬師寺巡りに遠征。今回は日帰りではなくゆっくり1泊2日の寺社めぐり。緑色濃くなった奈良の世界遺産文化財は時に修学旅行の生徒達で所どころで混雑もあったけれどやはり今が快適な見学シーズン。自称古代史ファンとして奈良は何度行っても面白い。

我が国最古の法隆寺は大胆で力強く男性的な感じの作りがするが、薬師寺は華麗で軽妙な作りって感じの印象を受け見る人を魅了する。 ところで法隆寺は7世紀初めに当時密接な繋がりのあった百済の様式で作られているのに対し、その約80年後の薬師寺はもうすっかり唐様式に替わっている。測定単位も高麗(こま)尺から唐尺によって建てられて随所に違いがある。・・・。この奈良・白鳳時代大化の改新にはじまり、交流した百済が滅亡、倭国は白村江で敗戦。壬申の乱皇位継承争い、そして百済等からの多量の移民等々があり、この国のあるべき姿を求められた時代で、その変遷が建物自体の違いとなって現れている。また「日本」という呼び方も「天皇」という呼称もこの時代に用いるようになるなど、日本の形が結界する時代でもあった。 日本書記の編纂を指示した天武天皇と嬬の持統(天皇)は晩年、天上の浄土を地上に再現を望み、やがてそれは薬師寺の伽藍として結界した。
火災などによって一度は失われた伽藍の大半を近代に入って、最後の宮大工と言われた西岡常一氏らの技術によって多くを復元した薬師寺を見ていると、大袈裟だが、歴史とは何か と思うのだった。