人と物が往来する大笹街道の関所

国道横に大笹関所を復元、まもなく完成!

群雄割拠する戦国の時代、中山道や北国街道の脇往還として大笹を通る仁礼街道(大笹街道)、信濃道は真田氏の重要な戦略路でしたから、1652年に私関として浅間高原の大笹と狩宿に関所を設置しています。その後、沼田城主真田伊賀守信利によって幕府の許可を得て正式に設置され、沼田藩改易後、1681年に幕府直轄の関所となって幕末まで200年余にわたり使われて街道はにぎわいました。
特に北信濃からは、起点の仁礼(須坂市)から沓掛(軽井沢)まで、北国街道まわりでは10宿20里のところ、大笹街道は2宿14里と利便性の高い往還でした。また、狩宿の関は信州街道と沓掛、草津川原湯への入湯客往来の交差点として大切な役割がありました。


江戸時代に上野国(群馬)には関所がいちばん多く14カ所、武蔵が10か所、信濃は7カ所ですから群馬は人と物の流れの要衝の地でした。生糸大貿易商の中井屋重兵衛や豪商の加部安左衛門はこの街道沿いから出ています。今、群馬がカインズホームヤマダ電機ビッグカメラ(高崎発祥)など物流企業を生んでいるのも、こうした土地と風土があったからかもしれません。 さて、大笹宿は繁栄して明治になると、国鉄の導入が持ち上がりました。しかし宿場が衰退するからと言って反対があり、軽井沢に信越線ができました。 往時をしのぶ大笹御関所の復元は間もなく完成します。