乱世を生きた一族と武将・・・常林寺とのつながり

長篠城を武田軍団から死守した奥平家忠臣は出家して嬬恋にいた・・・ 

お彼岸中だからと言う訳ではありませんが、寺巡り戦国武将を訪ねる一人ツアーを実施した。 富岡市の「なんじゃい」(南蛇井)という可笑しな地名(駅名にもなっている)にある「最興寺」を最初に訪ねました。ここは嬬恋村菩提寺、常林寺(1538年開山)の元寺にあたり、当初住職はここと兼務でした。次は旧吉井町下奥平地区の丘にある「奥平氏発祥の地碑」と奥平城を探して訪ねました。そして帰りに軽井沢町信濃追分にある「泉洞寺」です。これらは出家した武士によって繋がっていました・・・。


戦国の時代、小さな豪族だった奥平一族は三河(愛知)に居し、当初は今川氏に属し、今川が滅ぶと家康側に付きましたが、武田氏が伸びると人質を出して竹田に服します。しかし信玄の死亡とともに家康側に帰順したのですが、一族の命脈のためか武田側にも別れていました。 しかしこれが武田の激怒に触れ人質は皆殺しにあっただけでなく、武田との最前線の城「長篠城」に奥平軍は約500の兵で立てこもり武田軍15,000の兵に攻められたのです。世に言う長篠の戦い(1575年)でした。激しい戦いから城を死守した奥平氏は後に徳川から松平(奥平系)を賜っています。この長篠の戦いを生き抜いた奥平氏重臣だった武将(俗名、林 主人氏)は後に長篠の医王寺で出家したのです。縁あって富岡の最興寺に着き、そして末寺の嬬恋の菩提寺、常林寺の5世の住職に就きました。けれども常林寺の開基が武田軍に篤く仕えた鎌原氏でしたから、心中複雑だったのかもしれません。しばらくして5世の住職は信濃追分(軽井沢)に泉洞寺を開設しています(1615年開山)。不思議な縁ですが奥平氏の発祥地は高崎市吉井町だったのです。乱世を生き延びる小集団の必至さは、真田一族とも似ていました。 奥平氏はその後、各地を転封し豊後中津10万石として明治を迎えていますが、福沢諭吉はその家来にあたる家柄と言われます。


 奥平氏発祥の地碑

 信濃追分 泉洞寺 (写真下)