儒学者 佐々木愚山と嬬恋村

渋川市 真光寺で佐々木愚山翁の碑を探す (12/15)
M22年の時「嬬戀村」と言う地名をアドバイスしてくれたのは県の文官だったと言うことを以前にもここで勝手に書いたのですが、その文官とはどんな人だったのか、当時の国学の様子はどのようなものなのだったのか気になっていたので出かけました、渋川市へ。
江戸の末期から明治にかけて群馬県には当時、三大儒学者がいて、その一人に佐々木愚山(ぐざん)という人がいました。仙台藩士族の出の愚山は有名な足利学校の校長を経て西群馬郡に入り、安中藩、七日市藩(富岡)等で儒学を教えたので、その門下生は3,000人を超すと言われるほどでした。その佐々木家の墓地が渋川市名刹真光寺にあります。 なぜ渋川にあるのか?それは愚山の長子の穀堂さんが中之条町で医院を開業したのち渋川に移り、その息子も医院をしたからです。真光寺にある墓碑は長子、穀堂さんの碑ですが、穀堂さんの碑に刻まれた撰文は二男の左源太氏によって漢詩で書いてあります。実はこの佐々木左源太と言う人は、養蚕の適地を求めて嬬恋村の先ノ入地区に開墾、開拓者として入った人でした。生活のために村で学校の先生をしながら養蚕の研究をしたのです。
いつものように長い話になりますから、簡潔に書止めますが、群馬県蚕糸業協会発行の本によると、明治時代における県内蚕糸重要製造地19カ所に嬬恋村が入っていたのは、佐々木左源太氏が開発した晩秋産用の稚蚕(品種)によって量が安定したからだと言われています。父愚山から血を継いだ左源太氏の漢文、漢詩の理解と普及は養蚕とともに村の文化にも大きな影響を与えるものでした。