天明の浅間山大噴火の被災地を走り回った僧侶と江戸の鋳物師

人の縁、地の縁、時の縁
むかし恩師だった先生は今、老人会長をしている。しばらくぶりにお会いしたら、鎌原観音堂に寄進された観音様について調べているから、手伝ってくれと言うので、生徒みたいにわかりました、と返事したのが腐れ縁か。ところが調べていると面白い。話は昔、原町にある顕徳寺には世継ぎが無かったとき、本山から高僧の高雲院宥弁と言う和尚が縁あって着任すると寺が栄えた。宥弁和尚は才覚を発揮し、四国88カ所巡りの地域版を吾妻、群馬、碓井3郡に設置する企画を進め天明2年に建白し、88カ所の本尊を整備し、鎌原にあった延命寺も第76番目になっていたから、巡礼者で地域は賑わうはずだった。しかし翌3年、天明の浅間大噴火によって延命寺は埋没し消えてしまった。吾妻は言うに及ばず碓井郡も一変した。ことに及んで宥弁和尚は被災地を回り、供養の限りを尽くしている。天明5年、宥弁和尚は自ら仏像を3郡に8体を寄進し、供養の拠りどころを安置している。銅像は神田鍛治町の鋳物師多川主膳によって造られた。身内の間柄ともいわれるが、多川主膳は千葉県の新京成線鎌ヶ谷大仏駅前にある大仏の作者でもあった。時が過ぎ、災害の記憶が薄れると、8体は流転した。先生達の努力によってその8体がようやくこの春に確認できた。天明の噴火から230年目になる。今、その冊子作りを少し手伝っている。(写真は鎌原観音堂と千葉鎌ヶ谷大仏で写真はJAとうかつ中央さんのHPより借りました)