戦後の開拓地の舞台嬬戀、中原開拓について

開拓者の嬬戀村 ―― 中原開拓にいた正橋さんを偲ぶ
冬の厳しい浅間山麓に立つと、厳しかった開拓時代の生活に思いを馳せることが多い。
浅間山麓に広がる広大な高原を有する嬬戀村の畑地帯は、訪れる人を驚かす一面のキャベツ畑がまるで緑の絨毯のように映えるところだ。この田園地帯が首都圏の夏秋キャベツの供給を一村で賄ってしまう日本の先端の高冷地輸送園芸地帯である。この農地の開墾には、既存の集落の農民だけではなく、村内外から多くの開拓者が入り開墾されている。その数は11地区に及んでいる。とりわけ、浅間北麓の開拓は、同時に始まった浅間南麓開拓との比較において、さらに我が国の開拓史において、際立った発展と成長を遂げた地帯として注目される。すでに長野県側の南麓は農業地帯としての形を大きく崩しているからである。
群馬県の開拓への取組み
戦後の農業、農村復興の一環で開始された国策の「緊急開拓事業実施要領」を受けて群馬県は、昭和20年に開拓可能地の選別に入っている。翌年に開拓課を設置すると同時に畑を中心とした14,345町歩(ほぼ14,345㌶)を選定したが、この内の50%を吾妻郡が占め、嬬戀村は5,342町歩と図抜けて多かった。開拓が高地、高冷地をその中心に据えざるを得ない厳しい現実があった。昭和23年、「中央指定地区制度」によって浅間北麓には長野県から30戸、山梨県から20戸と県外からの入植を受け入れた。県下の開拓地は1,267地区に及んでいた。開拓者への支援はその後、35年の「過剰入植地対策要綱」や39年の「離農助成対策事業」などの国の政策・支援措置によって入植者の営農も拡大が進むと共に、一方で離農者も多く排出した。様々な国の開拓地に対する支援措置も44年の「旧制度開拓による入植者に対する振興対策の今後の取り扱いについて」によってほぼ終息し、以降一般農政の中に組み入れられるようになり、嬬戀村の開拓農協も解散し一般総合農協(現、嬬恋農協)に統合している。
プロジェクトX、神川村分村計画
浅間北麓のパノラマライン沿いにある中原開拓地は、全員長野県、神川村の入植者である。上田市丸子町との間にある神川村が村外への入植に取組みだしたのは昭和22年6月、当時の農地委員会が設置した「経済復興会」が作成した分村計画が始まりだった。昭和恐慌以降の農業、農村の荒廃のなかで、神川村は更正計画によってすでに満州開拓者19名を送っていたが、受け入れる余裕はなかった。再び入植に取組み、分村する道を歩む。当初は蓼科村も候補に上がったが、酪農しやすく近い嬬戀村を選んだ。計画して入植まで2年がかかっている。農地改革で動揺していたし、満州開拓のこともあって、目標30軒のところ、22名の入植に落ち着いた。その間、入植してすぐに下った人も多数記録されていることから厳寒の地の開拓が容易でなかったことが知れる。入植者の内訳は満州開拓者2名、フィリピン、マニラ開拓関係4名、台湾開拓者1名のほかは農家の次男、三男の人たちだった。分村中原開拓は母村神川村の大きな支援に支えられていた。

「開拓することは生きること」と語る正橋さん
満州開拓を経験し、再び開拓に入った一人に正橋竹次郎さんがいた。5年いた満州から帰ってくると、当時の堀込村長がとても心配し面倒を見てくれたこともあり再び入植に参加した。24年の春だった。その年の秋、母村の農地委員会の紹介で3組一緒に結婚式を挙げ今の妻と一緒になり、以来、32年間開拓の道を歩んでいる。当初は全員共同生活だが、笹の葉で屋根を葺いた平屋の質素な家に住み、共同作業を2年余り続けた。妻千恵子さんは言う。「共同生活とは言え、笹屋根の下では、布団に霜が降りるようなもので、比べものにならないほどの生活でした」と。2年して6畳2間の家を作り22軒は独立した生活を何とか確保した。26年、1人の女の子が出来たが、他の家が母村に下る冬も4軒と一緒に、皆の馬の世話をしながら越冬する生活をしていたが、馬の餌で苦労したものだとしみじみと語る。開拓地は電気が入る32年まで、ランプで生活していた。開墾作業が続き、大きな木の根は爆破して開墾もしたという。簡易の独立屋を建て替えたのは40年のときだった。すでにキャベツづくりの農業が中心だった。
皆にお世話になりながら脱落もせずやってきただけです、と正橋さんは言う。
52年に一人娘が結婚して一緒に農業を始め、開拓以来の生活に明るい活気が差し込んだ。ところが、54年のキャベツの暴落が家族にきしみを生み、娘夫婦が離農し新しい職業のために引越してしまった。すでに60歳を迎えていた正橋さん夫婦に、後継者不在の将来に大きな不安が去来した。一致団結して開墾してきた仲間に申し訳ない気持ちが拭えなかった。
――山を下りる。
決心した正橋さん夫婦は32年の開拓の歴史に幕を引き、すべてを清算して上田市に下りた。母村の神川村は上田市に合併していた。お世話になった昔の村長の息子、堀込征雄さんは国会議員になっていた。今年80歳になった正橋さんは嬬戀を振り返って言う。「自分は他に何も出来ない人でした、本気だったですよ、開拓だけを本気でしてきました。」と。
平成8年、娘夫婦も近くに越してきて時々、嬬戀のことが話題になるという。
嬬戀村の高原野菜産地は、開拓地とも融合し、幾多の苦難を乗り越えて一大産地を形成してきた。 産地作りは様々な人々の努力と人生が映し出されている。

(本文は平成18年に起稿している。竹次郎さんは21年に鬼籍に入られた。心からご冥福をお祈り申し上げたい。)