山上碑、日本語を文字で伝える足跡

「世界記憶遺産」を目指す「山上碑」を見て・・・ (3/15)
少し前に訪ねた「多胡碑」につづいて「山上碑」を見てきました。
上野三碑のひとつの山上碑は、前回の多胡碑からほど近い丘陵地帯にありますが、建てられたのは681年ですから三碑では一番古く、日本でも最古級の碑と言われます。碑文に登場する放光寺は、東日本最も古い部類の寺「山王廃寺」(前橋)であることや、三家とはヤマト政権の経営拠点の「屯倉」であることなど歴史的な価値も高く、また隣の古墳は一族の長のものと言われ、見る人の古代浪漫をかきたてます・・・。碑文はわずか53文字ですが風化して今は判りづらい。でも、1300年以上の昔にこの異国の文字を誰がいったい読めたというのでしょうか?

漢字が日本に伝わったのは285年頃のようですが、初めは外国の文字そのもので、当然、音も意味も全然わからない外国語文字だったのに、5世紀になると漢字学習が広まり、それからなんと約300年くらいかかったでしょうか、日本の言葉を表す文字として使えるまで私たちの先祖は苦心し改良を重ねてきた・・・山上碑は画期的な仮名が生まれる前の段階の「和化漢字」的な使い方だとも言われますが、ヤマトの地だけではなく群馬の地でも日本語文字文化の足跡が残されたことはとても驚きです。 いや、それだけではありません。中国で生まれた漢字は周辺の国にも広がって大きく影響したのに、モンゴル族元王朝も漢字を使いきれなくて独自文字となり、朝鮮半島では李朝(1392〜)になっても漢字から自国の言葉に適した文字が作り出せませんでした。1443年に漢字とは縁のないハングル文字を作りましたが、普及したのは戦後からです。ベトナムも漢字圏でしたがとうとう漢字を自国の文字にすることなく今に至っているのです。そう思うと、日本人の粘り強い取り組み、改良心は東アジアの中で、極めて特殊で、日本だけが例外的に漢字を日本化したのですから、上野三碑をみて先人の苦労に感謝が湧きます。「どのようにしたら、漢字で日本語を書くことができるのか」を日本人はずっと考えてきたのです。 ですから山上碑は、日本語の辿った道を残した稀有たる一里塚として「世界記憶遺産」にふさわしい碑でもあると思ったのです。
※写真下、現地には世界記憶遺産を目指す看板があります。

  ▼山上碑の解説版です。