出稼ぎの村、大賀ハスとの出会い

夏の花、古代ハスを発芽させた大賀一郎と群馬

大正から昭和初期にかけて嬬恋村は〈群馬で一番貧しい村〉と称されていたのはやはり事実だと思う。戦前戦後も多くの出稼ぎ者が村を離れた。野麦峠の製糸工場にも行った人もいれば、東京方面に商店や工場にもたくさんの人が収入を求めて家を離れていった歴史がある。
大賀ハスとの出逢い
この地に大正13年、6人兄弟の長女として生まれたひとりの女性Hがいる。村の旧家でもある安斎氏の紹介で兄弟家族のために16歳で東京に働きに出ている。淀橋区(現新宿区)上落合の大賀一郎宅(当時61歳)に家政婦として働くために。フクムロ酒店という敷地の一角150坪を借りていた2階建ての家には7,000余冊の本とハスの鉢があふれていて、片田舎から出てきた女性に、夫婦は自分の子どものように育て教えてくれたという。大賀夫妻には子どもが無く、大賀先生は群馬の内村鑑三氏と親交深くまた妻のうた子さんも丹波の貧しい農家に生まれながら「努力と信仰」の人といわれたこともあってか、家政婦の彼女が同じ農家の育ちで良く働くのを見て、幾度となく養子縁組を勧めてくれていた。しかし、時代はそんな計らいをも崩すように戦争へと進み疎開が始まり、献身的に働いた彼女もまた、4年間働いた大賀家をあとに帰郷している。
2,000年、出合う人を待っていたハスの種!
明冶35年、岡山県の豪家の12人兄弟の長男に生まれた大賀一郎氏は東京大学で勉強するために上京した。その後、旧制八校の教授の時に内村鑑三に師事していた縁で妻うた子と結婚。結婚するとすぐに満鉄の招聘で満州の教育研究所に「流された」。弟が現地の大連の病院長していた縁があったかもしれないが、それは天命に近かったと言うべきか。10年間住んだこの地で、フランテン泥炭層から出土したハスの実に出合っている。500年前後はあるここのハスの種子を100㌫発芽することを立証した大賀先生はあの「ニューヨークタイムス」でも取り上げられていた。当時、世界の植物会では一番古い種子の記録は200年といわれる時代だった。夫婦で渡米した大賀一郎は「もし、10℃の温度が保てればハスの種子は2,000年生きられる」と予言してたちまち反響を呼んだ。やがて満州から引き上げ、上落合(新宿区)に移り住み、ここでは戦火で焼失するまで14年間住んでいた。この間に千葉県滑川から須恵器とともに出土した一粒のハスの種を譲り受け発芽に成功するが途中枯らして失敗したことから、千葉の泥炭層の発掘を熱望し、ついに昭和26年にその実現に至る。40日費やし大事業のすえやっと3粒のハスの種を得ている。発芽はすぐに試され5月に始まり成功した。けれども、この研究調査のために自分の全ての私財を費やし、ただ「大賀ハス」が残っただけだった。 
ハス――夏の花の大宗
「蓮」の字は本来、ハスの果実のことで植物名は芙蓉、芙渠、荷と記される。厚い皮に包まれた種子は9℃なら3,000年生きていると言われるくらい植物界の最長寿であるが、7月上旬から9月上旬の間に次々に咲く花自身は、花の気高さ、清澄さを備え、馥郁(ふくいく)たる芳香を放ちながら、きっちり4日間しか咲いていない。1953年ドイツのハンブルグ市で行なわれた国際園芸博覧会の要請を受け、送った大賀ハスが見事に咲くと、東洋の神秘が話題となってハンブルグ市から名誉賞を受けたが、すでに困窮していた大賀先生が一番嬉しかったのは「20年前に家に浅間の麓からきていた家政婦Hのかなくぎ文字に心をこめたもの(手紙)だった」と記している。ハスの研究と伝道に対する熱情を傾けた大賀先生の生涯はただひとつ「何も持たぬに似たれども、すべてのものを持てり」に至っていた。清貧派の学究のたどり着いた境地でもあった。
最晩年、府中の病院に入院加療していることを小さな新聞記事で知って女性Hはすぐ上京、病院で再会したが、すでに生活保護を受けながら小部屋で療養する様子に涙した。その時、「病気が治ったら群馬に連れていって大事にしてくれ」と、わが子に頼む親のように何度も言われたことが生涯、耳から離れない。その横には天皇皇后陛下から贈られた洋ランの花がいつまでも咲いていた。
2006年。私は、大賀先生の没年令に達した女性Hと一緒に、府中の多磨霊園に眠る大賀一郎博士の清楚な墓碑を訪れた。やっとの再会に女性は長く静かに手を合わせていた。
大賀一郎 1883年4/28生〜1965年6月15日 ・写真は上田市国分寺古代ハス