興味尽きない古代!

宮大工棟梁・西岡常一が教える木の世界

昨年、縁あって奈良の出身だと言う女性に出合い、つかの間でしたが奈良の古代の話で盛り上がった。万座日進館の市村さんの奥さんだ。市村婦人は法隆寺を庭のようにして遊んで育ったというお話を伺い、私は法隆寺の宮大工・西岡常一氏のことを思い出した。木の育ち、性格をみて、適材適所に使うことによって、建築は強くなり、長く生き続ける建物ができる、と言う宮大工の知恵を、そして、いにしえの叡智を語り伝える宮大工に感心したのが、20年くらい前であったか。今では西岡常一氏を知らなくて古代建築は語れないほど傑出した職人である。しかし宮大工の知恵と技術は西岡家に継ぐ者が無く三代で終わった。西岡常一氏が、男なら自分のあとを継がせたかった、と声をかけた身内の姪っ子さんが居て、嬬恋村に在住する市村婦人であることを知って、驚きでしたし不思議な気がしたのです。まもなく、市村さんの叔父にあたる西岡常一氏の著書を3冊お借りすることができた私は、ゆっくりながめて、やっと読み終えたが、自然に逆らわず、自然のまま組み構築する奈良飛鳥の時代の自然観に学ぶことが多い。

日本のかたち
市村さんからお借りした西岡常一氏の著書を3冊読んで面白いのは、法隆寺薬師寺など奈良時代の大変革期の建築技術や考え方と正面から向き合っているからだ、と思う。明治政府が手本にした古代・律令国家成立期。その中心地奈良、ここにある法隆寺法輪寺は飛鳥建築様式で高麗尺(こま尺)を使っているが、わずか50年も経たない後に造られた薬師寺は唐尺(から尺)で作られている。唐から直接入ってきだしたという時代のスピード感がある。私たちの生活にもそれは繋がっていた。各家庭に仏壇を祀らせたのも685年の3月に奈良から発せられたものだった。地名や苗字を好ましい二文字で表記せよと改められたのも、この時代から始まった。古事記や日本書記も編纂され、私たちの国の体裁がここで整えられたと思うと、血が騒ぐような面白さが伝わってくる。群馬はいち早く奈良に呼応して東国一の都が作られていた。上野国(群馬)緑野郡出身と言われる佐味宿那麻呂(さみのすくなまろ)が壬申の乱などで活躍し、貢献した。この時代、群馬もすごかった。

 薬師寺西塔
薬師寺西塔(正式には三重の塔)を復元した管長・高田好胤は、塔は誰が作ったのかと言えば、大工さんである。と、ためらいなく語る言葉が光っている。薬師寺はその昔、天武天皇によって築造され、妻の持統天皇の時完成したと言われる。天の浄土を地上の離宮として見えるようにと、夫婦の強い絆、想いが込められた場所だ。
西塔を復元した西岡棟梁は言う…礎石が地上に据えられて、柱がポンとおかれる。日本には古来より、大きい樹木に神様が降りてくるという依代(よりしり)の思想がある。伊勢の御柱、諏訪の御柱などに残っている。この古代の考え方と、塔の心柱にお釈迦様の骨を納めるという仏教本来の、お舎利を祀るという考え方が統一されて塔になっている、と。これには独り納得させられた。それは、国教として神道と仏教の両者が争ったとき、「和を以て貴しとなす」と言った聖徳太子の具体的な調和した和の形が塔の姿となり、受け入れられて来たのではないかと思ったからだ。高崎市にある上野国分寺跡には東国一の七重の塔があった所で、今は公園に整備されている。高崎イオンの近く。
(写真は薬師寺HP掲載の西塔です)