浅間鬼押出し園の寛永寺文化財

鬼押出し園に何故? 上野寛永寺別当院設置の因果!

観光地として鬼押出し園に入ると、噴煙の浅間山を見て安全祈願するのに観音堂はありがたいと思う。でもこの観音堂が上野寛永寺別当院だと聞くと、いささか不思議な気がする。何故って、上野東叡山寛永寺と日光輪王寺は日本仏教の母体でもある比叡山延暦寺天台宗で、宗教的権威は絶大であるし唯一、皇室関係が係わってきた寺なので、それだけに特別な理由なく分院などあり得ないのが一般的だからだ。しかし、鬼押出しに分院した、1958年(S33年)に。浅間山の災害供養のためなら、天明の噴火の直後に建立する機会もあったものを。
鬼押出し園を開設した近江商人堤康次郎氏はここに様々な仕掛けをしている。園内にある40基の燈籠も徳川将軍の霊廟にあったものがここに移されたし、くぐり抜ける惣門(二天尊像を納めている)も五代将軍の霊廟のものがここにある。いずれも歴史的文化財で貴重でもあるが現地の説明は乏しい。別当院建立は堤氏の努力によって実現したのは間違いないが、一方で堤氏率いる西武鉄道は戦後、皇室を離脱する浅香宮家、武田家、東伏見宮家、北白川家の都内の土地を取得してきた。とりわけ北白川宮家の幕末から明治を生きた能久親王は、日光輪王寺の門跡であり、上野寛永寺貫主であったから、皮肉にも上野戦争彰義隊に加勢している。波乱万丈を生きた能久親王はのちに近衛師団に入ると、この浅間高原に近代的な吾妻牧場(浅間牧場)を開設し、幕府直轄地であった浅間高原の解放の開祖となった。寛永寺北白川宮そして浅間牧場の繋がりを堤氏は当然、承知していた筈だ。それゆえ北白川家に縁もゆかりもある浅間の地に寛永寺の分院が実現したのではないかと察するのが理にかなう。理由はどうであれ、三者はつながっている。
鬼押出し文化財には堤康次郎氏の執念が実り、観音堂の完成時に堤氏は天台座主大僧正から感謝状を受けている。いま北白川宮家の跡地には新高輪プリンスホテルが建ち、比叡山延暦寺の座主には上田市別所温泉常楽寺門主だった半田孝淳氏がなって、全日本仏教会の会長を務めている。 (写真は2月末の浅間観音堂