浅間牧場 駆け足、加速する秋

浅間牧場 その2






この季節の浅間牧場はとてもお気に入りですからよく訪れます。
最近は、昔の地名なども見て訪ねたりしますが、昭和19年ごろの地形図が書物に載っていましたから見てみると「黒豆河原」とか「躑躅が原(つつじがはら)」と最近まで呼ばれていた地名が記されて楽しいですね。黒豆とはいわゆる浅間ぶどう、最近は浅間ベリーなどと言われる果実のことです。それから躑躅が原と言う地名はここが天下のツツジ景勝地だった証です。日本で最初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」はここが舞台でした。またこの高原を走っていた草軽電車もツツジの花のシーズンになると祭りのためにとても混んでいた記録が残されています。いまは考えられない高原の様子です。

そうそう、一方でS19年〜20年は浅間山も活発に活動をしていました。例えば20年の3月だけでも噴火は20回そのうち大噴火1回、中噴火6回あったと残されています。昔から「浅間が活発なときは戦争がある、不況になる」と古老が言い伝えています、納得ですね。因果はわかりませんが前年の12月17日には三河地震もありました、戦時中でしたから騒がれなかったのでしょう。
噴火の軽石層の土地に好んで自生する黒豆やレンゲツツジを人々が楽しみ、噴火のたびに火山を畏れて暮らした時代が地図に残っていました。

写真:レンゲツツジの版画は伊藤深水の信州10景のひとつです。
   4枚目はウメモドキ、その下はチョウセンゴミシで次がサルナシです。いずれも浅間牧場付近です。
※地図の「岩窟ホール」とは今の「鬼押出し園」のことです。

山河星霜 10月になりました.

久しぶりに陽ざしの下を天丸山まで。







旧暦の重陽節句が今日の2日にあたるとか。雨ばかりだったのでありがたさも半々ですね。昨日は久しぶりに浅間牧場のハイキングコースを歩いて天丸山(1,345m)まで行ってきました。ほぼフラットなのでお気に入りのコースです。
紅葉も急に季節を走り出した感じで、木々の実がとてもキレイでした。
ホウノキの花の形見は鮮やかな色をして葉のグリーンとベストマッチ。一本だけあったウメモドキは赤い実がビッシリ。植栽したと思われるヤマボウシにはたわわに実った果実がいっぱい。コナシの実も大豊作でしたし、ゴミシの実も真赤々(写真ありません)。天丸山の頂上にはナナカマドの実も鮮やかに色付いて迎えてくれました。すっかり秋、10月なんですね。
天丸山でベンチに座り正面の小浅間山を眺めながら・・・ここで70年ほど前に若い技術者たちがタイムリミットに間に合わせたい一心で不眠不休の開発をした物語を思い出しました。

日本で最初のロケット、ここに眠る。

この天丸山から見渡す浅間山麓一帯は戦後まもなく進駐軍よりアメリカ軍の演習場に指定されたことがありました。軽井沢町などでは大反対運動が起り、争議のすえに米軍から取り戻した高原でもありましたが、今は長閑な牧場の光景です。
ところがこの争議の年、いま私が座っている足元から、戦時中の弾道弾のような大きな遺物が見つかり、たちまち町関係者は危害を恐れて埋設関係者を探してみると、元海軍技術研究所が極秘で開発・発射の試験地であることが解ったのでした。
その会見記事によると・・・埋もれていたのは、世界で唯一の無線誘導ロケットだったという事でした。にわかに信じがたい話に当時のマスコミの反応も冷たかったようですが、のちにその全容も明らかになり、数々の独自技術で開発された日本で最初の誘導液体ロケットであり、この浅間高原の一角で完成していた、つまり日本のロケット発祥の地がこのまさに天丸山ということでした。

関係者のコメントが残っていて「あれは、今なら地対空誘導ミサイルです、B29撃墜を狙って、終戦ぎりぎりまで頑張ったんですが、間に合わず埋めたものです…」と。開発した吉田大尉は、爆発処理を命じられたが、仲間と不眠不休で開発できたと思うと、埋葬して浅間を去った、と後にコメントを残してしていますが、とても普通ではない処理の心情が偲ばれて長く私の中に残り、いつ来てもここの標柱が、若き技術者たちの「青春の墓標」の印象がある場所です。人を乗せずに敵機を撃ち落とす無線誘導ロケット開発に賭けた若き技術者たちの執念と、熱い技術者魂が今も埋まっている天丸山です。

写真下:この階段付近から正面の向こうの小浅間山に向けて発射試験が繰り広げられました。

浅間山は縄文人を潤したか。

日本最古の人骨が洞窟・岩陰から見つかった!

古代史に係わる大きな発見や新たな解釈が出るたびに、自分たちの祖先はどこから来たのかという血が騒ぎ想像力も浪漫も駆り立てられる気分です。
つい最近、隣町(長野原町)の岩陰遺跡から8,300年前の縄文人の人骨が見つかった、とアナウンスされました。(初めにことわっておきますが、昔は町村境も無ければ県境も当然ありませんでしたから、このニュースはここ一帯に係わる一大関心事です)

長期に住居として利用されたからその灰が骨を保護していたという今回の遺跡は「居家以(いやい)岩陰遺跡」と呼ばれ、縄文早期中葉の人骨を中心に6体が在ったと公表されています。またこの岩陰は15,000年ほど前から住居あるいは埋葬地として使われてきたと新聞は報じているところです。DNA鑑定を含めて当時の様子などの今後の見解が待ち遠しいところですね。
ところで、縄文(含む弥生)時代の洞窟・岩陰遺跡はこの近くの万座温泉の熊四郎洞窟遺跡や旧六合村の熊倉遺跡(ここは平安時代の山岳住居跡)や岩櫃山東吾妻町)の岩陰遺跡など多数が確認されていて、吾妻郡内の洞窟・岩陰遺跡は「吾妻洞窟群」とも呼ばれ群馬県の6割以上を占めると云われるほど多いのが特徴です。
それだけでは無く、長野県側でも、有名な佐久の栃原岩陰遺跡や万座温泉の西側の高地(1500m)にある湯倉洞窟遺跡(ここでは7,000年前の人骨を確認)や、菅平高原の15カ所に及ぶ洞窟・岩陰遺跡などが多く在って、やはり長野県の洞窟・岩陰遺跡の大半をこの一帯が占めているのだそうです。菅平のひとつ石小屋洞窟の土器は吾妻町の岩陰遺跡にきわめて類似が指摘されるなど、広い意味で環浅間山一帯に少なくとも8,300年前から5,000年以上にわたって高地に生活圏が形成されていたのかもしれません。
この時代には温暖化が進み、7,000年前〜6,000年前が温暖化のピークを迎えたとされますから今の東京駅あたりはもちろん海の中でしたよね。高地はナラやドングリ、トチの実など自然豊かでシカやイノシシ、熊などの生息もかなりに登っていたでしょうから狩猟採集する生活には好適地ではなかったかと思うのです。
でも、群馬でも長野でも山岳地帯には洞窟や岩陰はほかにも沢山あったのに古代人の利用した報告があまり見当たらないとも言われますから・・・なぜ浅間山周辺に集中したのか、不思議といえば不思議でとても不思議。
私もジオパークに係わっていますから浅間山の活動を見てみると、カルデラ火山形成に至る最後に今の前掛山の活動が始まったのがおよそ8,500年前とされ、これより1,000年間が最初の活動期(今は3期に当たります)になるので活発な活動は丁度縄文早期あたります。すでに浅間山麓は広大な地形が基本的に形成されていたはずですから活発な活動の直接の影響の及ばない範囲に縄文人は長期にわたり生活していたことになります。火山をどのように思い、信仰していたのかは不明ですが、噴火のあるたびに山麓では鳥獣類が騒ぎ逃げ出すことは知っていたでしょうから、噴火活動は狩猟の好機になっていたのでないでしょうか。火山に近すぎず離れすぎない高地の暮らしが快適で長く継続した背景を想像する環浅間縄文文化です。
 ※上の写真は長野原町長のFBよりお借りしています。

冊子 「嬬恋村の文化財」

嬬恋村文化財紹介本がリニューアル


たいがいどこの市町村でも地域の文化財を紹介しした冊子がまとめられていて様々な形で案内や地域紹介がされていますが、今年はこの一帯は真田丸に関する歴史や文化財などが人気です。私もここの嬬恋村文化財調査員に係わっていることもあって時々、案内させていただきますが、その教本とも言うべき嬬恋村文化財を紹介した冊子がリニューアルしました。有料ですが郷土資料館や教育委員会で扱っています。ちょっと内容をアップしてみました。今度の冊子は指定をされていないけれど価値の高い文化財等も収録しています。機会がありましたら是非手に取ってどうぞ。

慶祝!「浅間北麓ジオパーク」が正式に認定されました

はれ晴れした重陽節句(9/9) ※今朝の浅間山です

今日は久しぶりに空も晴れわたった9月9日、重陽節句の日でめでたい日。私が住んで居る小さな集落では今日明日が秋祭りの日です。
重陽節句はあまり馴染みが無いんですが1/1、3/3、5/5、7/7に次ぐで5節句のひとつでした、山岳信仰の強かったこの辺りではやがて「とおかんや(十日夜)」や十五夜の行事等にに定着したとも言われます。陰陽道では陽の奇数の最高位が九なので、ふたつが重なる日が最高にめでたい日(新暦では10月2日あたりです)のだそうです。、今は「救急の日」!でしたね。
ところで、夕刻に吉報が入りました。以下、認定文と村のコメントです。

【認定文】日本ジオパークネットワークの講評です。
浅間山北麓ジオパークは、浅間山の近年の噴出物が作る地形や噴火災害の遺構などの国際的価値の高いジオサイトを持ち、火山灰土や高原の冷涼さを活かした農畜産物の恵みを有している。夏場人口が住民の5倍にもなる観光地の環境を背景に、火山防災を意識したジオパーク活動が、住民にも受け入れられはじめている。今後、日本ジオパークとして展開することによって、日本ジオパークネットワークへの貢献も少なくないと考えられる。大手観光企業との連携も進んでおり、ジオ資源を活用した地域の持続的な発展が期待できる。以上により日本ジオパークとして認定する。


【祝!日本ジオパーク認定】 ※FB記事より転載です。
本日、日本ジオパーク委員会が開かれ、浅間山北麓地域が、日本ジオパークとして認められました。以下、当協議会会長・副会長のコメントです。

この度の日本ジオパーク加盟に浅間山北麓地域が認定されたことを、心より慶んでおります。
認定されたことは、浅間山北麓地域の素晴らしい資源が認められたということと、なによりジオパーク活動をこれまで地道に取り組んで下さった運営委員の皆様、地域住民の皆様、また支えて下さった学識委員・関係機関、皆様のおかげだと心より感謝しております。
ジオパーク活動は、何より人々を結びつける活動であり、地域を大事に育む活動だと感じております。
将来は、国際性のあるジオパークとして、イタリアのポンペイやハワイ島のキラウエア火山の方々との交流を深め、ユネスコの世界に認定を受けるべく、地道に活動を展開していきたいと考えます。
これからが本当の活動の始まりですので、地域の子供達のため、ネットワークの仲間のため、嬬恋村長野原町の住民の方達と、また浅間山を取り巻く皆さんとジオパーク活動に精進してまいる所存ですので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
                浅間山ジオパーク構想推進協議会
                       会長  熊川 栄
                       副会長 萩原親男
とても嬉しいニュースでした。※下の写真は四阿山からの浅間北麓です。

山の実、カヤの実、ツノハシバミの実は縄文時代から

縄文の食べ物①、榧の実を取りました。 (9/2)




昔はどこの山にも一本くらいは自生してて、農家の庭先に凶作時の非常食として植えられていたというカヤ(榧)の木。明治以降伐採されすぎて貴重な樹木になってしまったみたいです。木目の美しさとその香りのよさから最高級の碁盤が作られたりしましたが、昔はその油を灯火に利用したり、家の虫除けとしても植栽したようです。さらにこの樹液が身体の回虫除けにも利用したので何かと便利な木だったようです。今はもう神社や寺院境内に見かける程度になりました。
この木は育つのに300年以上かかるので植える人も少なくなるばかりで寂しいですね。よく育てるのが難しい木と言われますが、ここでは意外と簡単に育ちます。という私も妻に嫌われながら10年ほど前に庭に数本植えていて、毎年実が付くようになりましたからさっそく収穫しました。縄文時代からからアク抜きをして食べてきたとも言われる榧の実、豊臣秀吉や家康が絶賛した幻の天ぷら油はこの実から抽出していますが最近は国産が流通しだしました。油切れの良さ、香りの良さ、それに身体に良いから大注目されているオイルとか。そうそう、実は雌木に付き、2年かかって実になります、気の長い話、いや木の生長ですね。

縄文の食べ物②、角榛の実も取りました。


数日前、近くの集落で釣りをしていたオジサンが熊と遭遇したけれど空手の名手だったから撃退した、というのでちょっと話題。で、今頃の熊の餌で人気はツノハシバミ(角榛)。これからが食べ頃になるけれどこの実はリスも大好物なので食べるのは先着順という動物界の人気果実。今年は豊作でたくさん実を付けています。この実は西洋ではヘーゼルナッツ。日本ではただのハシバミに近いがこの辺りでは角榛です。こちらはそのまま生でも食べられますがちょっと乾燥させると利用しやすいとか。ただし独特の房は素手で取るのは禁物、何故?って後でチクチクと手にガラス質の毛が刺さって大変ですから。

群馬歴史博物館リニューアル、東国文化の情報中心地に。

『甲(よろい)を着た古墳人の人物像』の講演を聞いた。



榛名山の大噴火によって埋没したという渋川金井東裏遺跡は日本中の古代史ファンを熱くしていますが、私も興味津々。夏にリニューアルオープンとなった群馬県立歴史博物館の記念講演『甲を着た古墳人の人物像』をワクワクして拝聴し、展示も見てきました。講師は古墳研究の第一人者でここの博物館の右島和夫館長さん。渋川の発掘にも深く係わった人ですから現場の様子を交えて熱く2時間余りのお話に頷くことばかりでした。

甲を着けたまま見つかった熟年男性のマスクは渡来系の特徴があり、歯の測定から長野県伊那谷に移り住んだ渡来系の出身と思われる一方、妻と思われる女性の方は縄文系のマスクの特徴を有し、歯の測定から渋川出身者では無いという、つまり男女とも群馬ではなかったけれど、子どもの歯を調べると榛名の育ちだったことがストロンチューム測定法によって判明したのだと説明。これはとても興味深いお話でした。さらに見つかった馬の歯からは父の代に渋川に移ったのではないかとも推察。古代の東国群馬は機織り機や瓦の製造など高い技術を持ったテクノクラートともいえる都市でしたが、その中心は渡来系の技術集団がいたと云われる話を裏付けるほどの遺跡と思わせるものです。朝鮮半島(当時の高句麗系か)との繋がりを示すものは他にも多数ある話でしたが、東国文化をリードした渡来系技術屋集団の暮らしの様子が見えるようでした。西の奈良に並んで比定される東の群馬の遺跡は日本書紀にある東国文化のイメージを変える要素がいっぱいでした。
リニューアルした歴史博物館では群馬の古墳時代と渋川金井東裏遺跡の展示をしていますのでお勧めです。